「石山さん、お食事はどうです、美味しく食べられますか?」
「はい、結構なんでもいただけますよ。実は先日も、小学校の時の同級生と、フランス料理を楽しみました」
ハナさんは、先日女性二人で、フレンチレストランへ足を運んだ。「新しい歯になって、なんでも食べられるのよ」と、友人に自慢したところ、「本当かどうか確かめてみたいわ」と、悪友の提案で三田の「C」に予約を入れることになった。問題なく食べられたら、御馳走してくれるとの約束。そのレストランには、常連とまではいかないが、懇意にしてもらっているので、予約の際に、悪友のこの企ても話した。電話で「わかりました」と、快諾をもらってはいたが……。
さて当日、アペリティフをいただいた後に、席に着いた。乾杯の後、前菜のテリーヌなど、まったく問題なし。ふと気づいた。「洋食って、総義歯に向いているかも」「食べにくければ、ナイフで小さめに切ればいいじゃない」。
メインディッシュの前に、赤ワインを頼みましょうということになり、ソムリエの方に選んでいただいた。
「今日のメインディッシュは、ホロホロ鳥ですし、この季節、見た目にも爽やかで奇麗な色のブルゴーニュの赤は、いかがでしょう」。
グラスに注がれた、その透明感のある赤ワインの色は、なんとも言えず美しかった。テーブルセッティングという言葉があるが、これも、まさしくそうであろう。「目にも美味しい!」そう呟くと、目の前の友人が、グラスを回しながら「このワイン、ブーケもすばらしいわ」。鼻にも美味しい、である。
デザートもしっかりいただき、紅茶とおしゃべりを楽しんだ後、友人が「あなたには、降参。今日は、御馳走するわ」と、笑いながら席を立った。その時「次は、私が和食を御馳走……」と言おうとして、とっさに口をつぐんだ。「フレンチはナイフとフォークで食べるから問題なかったけど、和食はお箸だから……」。道具が違えば、食べ方も違ってくるのでは?
「石山さん、すごいことに気がつかれましたね。おっしゃるとおりなんですよ」と、歯科医は、次のような話をしてくれた。
なんでも、「総義歯の祖・総義歯の父」と呼べるような歯科医はスイス人で、そのお膝元に研修に行った時のこと。入れ歯を作る時の目安が、日本で教わった数値とは結構違っていたそうだ。また、その研修中、お昼にスイス人の先生たちとレストランに入った際、たまたま、隣のテーブルで食事をしていた(もちろんナイフとフォークを使って)年輩のご婦人を見ていて、ひょっとしたら食べる時に、食物が口のどこから入るのかや、口への入り方が、使う食具(箸やフォーク、ナイフなど)によって異なることが背景にあるかもしれない、と思ったそうである。「自己弁護のようですけど、毎日お箸を使い、時にナイフやフォークも使い、中華料理も楽しむ日本人の総義歯が、実は世界で一番難しいのですよ」と、歯科医は苦笑しながら話を終えた。
昨日、電話をもらった。予備の入れ歯の仕上げが終わったそうで、口の中で確認してからお返したいので、来院してほしいとのこと。
「石山さん、こんにちは。予備の入れ歯が仕上がりました。これはごらんになっておわかりのように、この間まで、治療用義歯として使っていただいていた義歯です。予備の入れ歯として使えるように調整してあります。ご自宅に保管される時には、ちょっと大きめの湯飲みなどに水を入れて、その中に浸けておいてください。入れ歯は乾燥を好みませんので、ご注意を。泊まりの外出や旅行に行かれる時は、予備の歯をバッグの中に入れておいてください。旅行の始まりに、歯をなくされた方がいらっしゃって、その後、食事を楽しむことも、写真に収まることもできなかったそうです。携帯に便利な、義歯袋をさしあげます。どうぞこの中からお選びください」
紙箱の蓋を取ると、ティッシュケースより一回り大きな布製のポーチが、きれいに並べてあった。パッチワークのものや、巾着型の袋もあった。
「石山さん、お正月明けから、半年近くかかりましたけど、振り返ってみるとどうでした?」
「今回、初めて、食べることのリハビリを経験したような気がしますわ。ですけど、前の歯の高さを上げた時や、治療用の入れ歯が口に入った時には、こんなもので食べられるのかと不安になりました。しかし、『お鮨入れ歯』の名前が、いつも頭の片隅にあって、なんとか乗り越えられたように思います(笑)。もういまでは、本当にすっかり馴染んで、この義歯に私の血脈が流れ始めた気がしますね」 |