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医歯薬出版「歯科技工」2004.3月号に掲載


ハナさんは、最近気分がいい。炊事の時など、しばしば鼻歌がでるほど機嫌がいい。なぜかって? 春が近づいてきたから? 暖かくなってきたから? いえいえ、美味しく食べられるからである。

先月、噛み合わせを調整してもらってから、ほとんどのものが食べられるようになってきた。そうなると、しめたもの。寒い日の買い物も、苦になるどころか楽しみである。佃煮を選ぶときでも、食べたことがない佃煮を選ぶことができるし、小魚の入ったものでも、結構食べられるようになってきた。

「石山さん、こんにちは。お食事は、どうですか?」

「結構、なんでもいただいていますよ。けど、先生、私、調子に乗って、いただいていると太るんじゃないかと、ちょっと心配になって…(ふふ)」

「大丈夫ですよ。口の周りの筋肉が、きちんと働けば働くほど、頭に噛んでいるという情報が伝わります。そうすると、満腹中枢がしっかり作用しますから(笑)」

「安心しました。安心したついでに、もうひとつ。右の奥のほうが、ちょっと痛みだしたんですけど」

「見せてください。ああ、ここですね。少しばかり傷になってますね」

「そんなに、硬いものは食べてないんですけど。やはり、食べ過ぎでしょうか?」

「いえいえ、これは筋肉が力を取り戻してきた証拠です。ここを少し削って、軟らかい材料を入れておきますね」

そう言うと、いつものように、白いクリーム状のものを入れ歯の当たっている部分に付けると、口に入れた。

「痛みがでない程度に、軽く噛んでください。噛んだらそのまま、固まるまで」

数分すると、歯を取り出し、見せてくれた。

「この白い材料が抜けて、ピンクの下地が見えている部分が強く当たって、傷になったんです、削っておきますね」

白い材料で二回調べて、削った後に、あのちょっと変な味のする軟らかい材料を、削った部分に入れて、口の中に戻された。

「はい、カチカチしてみてください。もうあまり痛くないでしょう」

「そうですね。よさそうですよ。先生、ところで新しい歯はいつ頃できるんです?」

「私も、そろそろそのお話をしようと思っていました。石山さんはどんな歯をご希望ですか?」

「そりゃあ、痛くなく、美味しく食べられる入れ歯です」

「なるほど。では、新しい歯で、何を食べてみたいですか?」

ハナさんは、ちょっと考えた。食べ物が走馬燈のように、頭をめぐる。沢庵は食べられたし、次は筍? 唐揚げ? おすし? そうだ、にぎり鮨を食べてみたい。

「にぎり鮨です」

「お鮨は、私も好きです。では、石山さんの新しい歯の名前は「お鮨入れ歯」にしましょう。石山さんがお鮨を食べられたときが、お鮨入れ歯のできあがりです」

「お鮨入れ歯…。楽しみねえ」


「お鮨入れ歯の作り方なんですけど。私としては、今回、きちんと腰を据えて作られることをお勧めします。今回、噛み合わせをさわりましたけど、かなり違和感があったんじゃないですか?」

「ええ、こんな高い歯で食べられるのかと、本当に思いました。けど、ヒトって不思議ですね。一週間もすると、慣れるんですね。最初は、ほっぺたを噛んだり、舌を噛んだりしてましたけど、いまでは、そのようなこともほとんどなくなりました。おっしゃるように、腰据えて作る気持ちはありますけど、どのように作るんですか?」

「まず始めに、治療用の入れ歯を作ります。その治療用の入れ歯で、十分にトレーニングを兼ねた調整をした後に、完成のステップへ進みます。ですから、最終的には上下で二組、合計四個の入れ歯を作ることになります。それなりに、時間もかかりますけど、費用もかかります」

「費用もね…」

「今日このお話は、初めてしましたから、ゆっくり考えられて構いませんよ。決めるのは、次来られたときでもいいですよ」


あれから、数日してハナさんは受話器を取った。

「先日の新しい入れ歯のことですけど、費用のかかるほうにしてください」

受話器を置いて、ふと窓に目をやると、やさしい雨が降っている。また、美味しいことを思いついた。



 つづく
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