ハナさんは、最近気分がいい。炊事の時など、しばしば鼻歌がでるほど機嫌がいい。なぜかって? 春が近づいてきたから? 暖かくなってきたから? いえいえ、美味しく食べられるからである。
先月、噛み合わせを調整してもらってから、ほとんどのものが食べられるようになってきた。そうなると、しめたもの。寒い日の買い物も、苦になるどころか楽しみである。佃煮を選ぶときでも、食べたことがない佃煮を選ぶことができるし、小魚の入ったものでも、結構食べられるようになってきた。
「石山さん、こんにちは。お食事は、どうですか?」
「結構、なんでもいただいていますよ。けど、先生、私、調子に乗って、いただいていると太るんじゃないかと、ちょっと心配になって…(ふふ)」
「大丈夫ですよ。口の周りの筋肉が、きちんと働けば働くほど、頭に噛んでいるという情報が伝わります。そうすると、満腹中枢がしっかり作用しますから(笑)」
「安心しました。安心したついでに、もうひとつ。右の奥のほうが、ちょっと痛みだしたんですけど」
「見せてください。ああ、ここですね。少しばかり傷になってますね」
「そんなに、硬いものは食べてないんですけど。やはり、食べ過ぎでしょうか?」
「いえいえ、これは筋肉が力を取り戻してきた証拠です。ここを少し削って、軟らかい材料を入れておきますね」
そう言うと、いつものように、白いクリーム状のものを入れ歯の当たっている部分に付けると、口に入れた。
「痛みがでない程度に、軽く噛んでください。噛んだらそのまま、固まるまで」
数分すると、歯を取り出し、見せてくれた。
「この白い材料が抜けて、ピンクの下地が見えている部分が強く当たって、傷になったんです、削っておきますね」
白い材料で二回調べて、削った後に、あのちょっと変な味のする軟らかい材料を、削った部分に入れて、口の中に戻された。
「はい、カチカチしてみてください。もうあまり痛くないでしょう」
「そうですね。よさそうですよ。先生、ところで新しい歯はいつ頃できるんです?」
「私も、そろそろそのお話をしようと思っていました。石山さんはどんな歯をご希望ですか?」
「そりゃあ、痛くなく、美味しく食べられる入れ歯です」
「なるほど。では、新しい歯で、何を食べてみたいですか?」
ハナさんは、ちょっと考えた。食べ物が走馬燈のように、頭をめぐる。沢庵は食べられたし、次は筍? 唐揚げ? おすし? そうだ、にぎり鮨を食べてみたい。
「にぎり鮨です」
「お鮨は、私も好きです。では、石山さんの新しい歯の名前は「お鮨入れ歯」にしましょう。石山さんがお鮨を食べられたときが、お鮨入れ歯のできあがりです」
「お鮨入れ歯…。楽しみねえ」
「お鮨入れ歯の作り方なんですけど。私としては、今回、きちんと腰を据えて作られることをお勧めします。今回、噛み合わせをさわりましたけど、かなり違和感があったんじゃないですか?」
「ええ、こんな高い歯で食べられるのかと、本当に思いました。けど、ヒトって不思議ですね。一週間もすると、慣れるんですね。最初は、ほっぺたを噛んだり、舌を噛んだりしてましたけど、いまでは、そのようなこともほとんどなくなりました。おっしゃるように、腰据えて作る気持ちはありますけど、どのように作るんですか?」
「まず始めに、治療用の入れ歯を作ります。その治療用の入れ歯で、十分にトレーニングを兼ねた調整をした後に、完成のステップへ進みます。ですから、最終的には上下で二組、合計四個の入れ歯を作ることになります。それなりに、時間もかかりますけど、費用もかかります」
「費用もね…」
「今日このお話は、初めてしましたから、ゆっくり考えられて構いませんよ。決めるのは、次来られたときでもいいですよ」 |