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医歯薬出版「歯科技工」2004.4月号に掲載


折角の桜なのに、ここ数日、曇り日が続く。天気同様、ハナさんの気持ちも曇っている。

「これじゃあねぇ。前の入れ歯のほうが、食べられるわ」

とひとり、言葉をにごした。正月明けに義歯をなくしてしまい、箪笥にしまってあった古い入れ歯を持って、歯医者に行った。数回通ううちに、痛みなく食べられるようになり、さらに、磨り減った歯の部分を修整してもらい、三月の声を聞く頃には、結構なんでも食べられるようになった。

先日、いよいよ次の治療の段階に進みましょうということで、「健康義歯」という名前の入れ歯を選んだ。なんでも、その作り方は、まず始めに治療用の入れ歯を作って、食べ方などを練習するそうである。先週、その治療用入れ歯が口に入ったのである。

「石山さん、この治療用の歯を見てください。下の奥歯の部分が平らでしょう。わざと平らにしてあります。平らになっているということは、どこでも噛めるということです。食べるときには、口の周りの筋肉が、主に働きます。簡単に言うと、ものを食べたり、話したりするときには、筋肉が下顎を動かすと思ってください。筋肉によって導かれる顎の動きと入れ歯の歯、特に奥歯の位置が、ぴったり合っていれば噛みやすいわけです。そのぴったりの位置を見つけるために平らなんですよ」

そのときは、歯医者さんの説明を聞いて、頭では理解できたつもりだったけど、やはり身体は正直。これじゃ、噛み潰すことができない。そこで、ここ数日お粥さんになったというわけである。確かに、手鏡で見ると、この治療用入れ歯のほうが、口元にはハリが出るし、何となくしゃべりやすい。見栄えはいいけど、食べにくいわね。野菜やお漬物が、食べづらいわ。

「石山さん、どうですか」

「先生、前の入れ歯のほうがよかったみたい。見栄えはいいけど、お野菜なんかがねえ」

「まあ、そうおっしゃらずに。たとえば、長年乗り慣れた自転車があるとしましょう。はた目にも、古い。ご本人も、そう思う。いざ、新しい自転車を買うと、新車のはずなのに、なぜか乗りにくい。古い自転車のほうが、癖もあり、がたつきもあったけど、乗る者にとっては、そんな癖を知り尽くしているし、慣れている。入れ歯も同じですよ。」

「先生のおっしゃることは、わかっているつもりなんですけど。舌やほっぺたを噛んだりするんです」

「まさしく、そうなんです。頭ではわかっていても、まだ身体は受け入れてくれないんですよ。言うならば、前の入れ歯には石山さんのツバが十分に染みこんでいるわけです。長い間、口の中に存在していたわけです。ですから、舌やほっぺたも、その入れ歯を口の中の、住人として認めていました。ところが、新しく作った治療用の入れ歯は、住み始めたばかりですから、隣近所の舌やほっぺたが、ちょっと距離を置いて、様子見をしているようなものです」

「しだいに馴染んでくるんですか?」

「ちょっとこの平らな歯の部分見てください。少し色が白くなってきている部分があるでしょう。このように、徐々に、石山さん特有の噛み跡が付いてきます。そうして、その噛み跡が、しだいに凹んできます。そうすると日ごと食べやすくなりますから、ご心配なく。失礼な言い方ですけど、口のまわりの筋肉や舌のリハビリと思ってください。」


「石山さん、お食事はいかがですか?」

「それが、食べやすくなってきました。先生のおっしゃるとおりでしたね」

治療用義歯を取り出してみると、下顎の臼歯部は、かなり噛み跡が形成され、凹みができていた。

「この治療用入れ歯で、十分に調整してから最終的な義歯を作りますから、この歯で、最近食べていないものも含めて、なんでも食べてみてくださいね。食べるだけでなく、カラオケで歌ったり、大口開けて笑ったり。なんでも」

「ははは、そうしてみますね」

家に帰ると、友人から花見の誘いのファックスが届いていた。花見弁当の献立は何にしようかしら? そういえば、最近、ゆで卵を食べてないわね。食べてみようかな。




 つづく

■参考文献
上濱 正,諏訪兼治,深水皓三:噛める,笑える,おいしい入れ歯.東京経済,東京,2003.

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