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医歯薬出版「歯科技工」2004.2月号に掲載


ハナさんは、迷っていた。お寺でのことを話そうか否か迷っていた。

先日、節分のお祭りでのこと。豆撒きのあと、落花生とお漬物とお茶がでた。周りでは「年の数ほど、食べるのよ」とか「この沢庵美味しいわね」とか、話も弾むが、その合間の「パリパリ、ポリポリ」の音が、なぜかハナさんには耳障りであった。

確かに、先月上下の総入れ歯を失くした後、古い入れ歯を調整してもらって、さほど痛みも出ず、食事はしているものの、不満がないわけではない。自炊していることもあり、スーパーで食材を手にするときから、選んでしまっている。季節ごとに、旬の野菜や果物、魚介類が店先に並んではいるが、やはり、気が付くと選んでいる。自分自身が食べたいものを選んでいるのではなく、己の口で食べられるものを手にしている。帰りしな「思い切って、相談してみようかしら」そう呟くと、少しばかり心が晴れたような、気がした。

「こんにちは、食事のほうはどうですか?」

「ハイ、おかげさまで、あまり痛みもなくいただいていますけど…」

「けど…、がつくということは…?」

「実は、先日お寺での豆撒きのときに、結局、目の前の落花生と、沢庵には手が伸びなくて…。周りで、パリパリと小気味よい音を聞かされると、余計に手が引っ込んでしまって…」

「沢庵はお嫌いではないのでしょう」

「好きなんですけど、近頃食べていないんです。この季節、白菜のお漬物はいただきますけどね、葉っぱの所だけを。白菜ならまだしも、沢庵だと噛み切れるかどうか…」

「石山さん。入れ歯というものを例えて簡単に言うと、下の入れ歯がまな板で、上の入れ歯が包丁です。口の筋肉が包丁を持つ手の力と思ってください。先月来られてから、軟らかい材料を使った数回の調整で、下の入れ歯は痛みもなく、あまりガタガタしなくなったでしょう。まな板を平らな所に置いたと思ってください。次は、包丁です。包丁の刃がなまくらでは、切れませんし、錆びていたら研がないと駄目です」

「先生。ということは、私の包丁は錆びているんですか?」

「錆びているというよりは、なまくらですね。石山さんもご存じのとおり、この歯は、ひとつ前の入れ歯ですよね。すみません、ちょっと上を外しますよ。ほらこの奥歯を見てください。すり減っているのがおわかりでしょう」


「石山さん、こんにちは。今日は包丁を切れるようにしますね。ちょっとお待ち下さい」

と言うと、上下の入れ歯を口から外し、奥に引っ込んだ。数分後に入れ歯を手に診療室に戻ってきて、見せてくれた。

「この部分に、すり減ったところを元のように盛り足して回復しました。はじめは高く感じると思いますが、高いのではなくて、適正な高さに回復したと思ってくださいね。高いと思っても、今日から一週間だけは、だまされたと思って、これで食べてみてください」

噛んでみる、あら、すごく高い。こんなんで、噛めるのかしら。

「噛み合わせを調整しますね。上下にカチカチしてください」

「はい今度は、横にギーギーと歯ぎしりしてみてください」

カチカチ、ギーギーの調整を二、三度するうちに、初めはかなり高いと感じていた入れ歯が、何となくちょっと馴染んできたように思えた。

「今日はこれで終わりです。いままで、入れ歯の歯がすり減っていたために、まな板と包丁というよりは、上と下が石臼のようにベターッと、合わさっていました。今日、上の歯に足しましたから、これでやっと、まな板と包丁です。おそらく切れ味はよくなりますが、食べ物を潰すのは少々難しいかもしれません。しかしそれは調整していきますので、どうぞご心配なく。試しに沢庵を食べてみてくださいよ」

沢庵をどうぞと言われたものの、本当かしらといぶかりつつも、少し寄り道をしてデパートに足を向けた。雑誌に出ていた漬物屋の名前を思い出しながら、地下の食料品売り場を見て回る。確かに美味しそうだわね…。沢庵だけではなく、沢庵より食べやすそうな奈良漬けも買った。

熱めのお茶をいれて、買ってきた沢庵と奈良漬けを皿に盛る。まず、奈良漬けから口に運ぶ。「サクッ」と音がしたように思えた。食べられた!もう一切れ。「サクッ」やはり食べられる。これだったら、沢庵も…。沢庵を口に入れる前に、まずはお茶を飲んで口の中をきれいにしてから…。心なしか、沢庵を挟む箸がふるえている。恐る恐る、力を入れる。「パリッ」音がした。「パリッパリ」食べられた。「パリッパリッパリ」音を楽しむかのように噛んだ。「沢庵の味ってこんな味だった…」と笑みを浮かべながら、お茶をゆっくり啜る。庭に目をやると、梅が三分咲き。ふと楸邨の句を思い出した。




 つづく
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