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医歯薬出版「歯科技工」2004.5月号に掲載


「石山さん、歯の形や大きさはどうですか? 今日は着物で言えば、仮縫いです。手直しはいくらでもできますから、遠慮なく感想やご希望をおっしゃってくださいね」

歯科医師はそう言うと、手鏡を渡して、奥に引っ込んだ。

手鏡を手に、ハナさんは涙ぐんでしまった。鏡に映る口元を見ながら、思い出したのである。あれはもうかなり昔、長女の真っ赤な奇麗な唇のすぐ奥に、白いちっちゃな歯が生えてきたときのことを、思い出していた。


「石山さん、歯が少し大きくはないですか? 白さは、これでいいですか、白すぎはしませんか?」

「前の歯が小さめだったので、これくらいでいいですよ。色もいいです」

「笑ったときの歯ぐきの見え具合は、悪くないですか?」

「大丈夫ですよ。なんか、自分の歯がまた新しく生えてきたみたいですね」

「そう言っていただけて、安心しました。ひとつ注意してほしいのは、他人様の目です。石山さんの周りの人は、好き勝手なことをおっしゃいます。何も悪気があるわけではないのでしょうが、勝手なことを言われます。次は、新しい歯の完成です。新しい歯になって、口元が変化したときに、人によっては変わったということを『あら、あなた、少し変じゃない?』と表現する人がいます。変わったのであって、ヘンになったのではありませんからね。老婆心ながら、付け加えておきますね」


ハナさんは、その試適の入れ歯を、自分で着けたり、外したりしてみた。何度もしてみた。内心「これほどにも、違うのか」と感じ入っていた。歳が、老けるの若くなるのだけではなく、歯がないと心細い。口に入れると、歯だけではなく、自信のようなものまでも、口の中にはっきりと感じられた。

「先生、歯があるのとないのとは、こんなにも違うものなのですね」

「その言葉を聞いて、嬉しく思います。石山さんの場合、いままで、結構かかりましたからね。いよいよ完成です。どうぞ、次はお昼頃に予約を取ってくださいな。新しい歯が口に入ったら、みなで一緒にお昼を食べましょう。そうそう、「は」があると言えば、目に青葉の句、正しくは「目には青葉」だそうですね」

診療所を出ると、その句のとおり、青が目にしみた。遠山に目をやると、まさしく万目青山である。



 つづく

■参考文献
上濱 正,諏訪兼治,深水皓三:噛める,笑える,おいしい入れ歯.東京経済,東京,2003.
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