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医歯薬出版「歯科技工」2004.1月号に掲載




「またか」と呟きながら、ため息をついた後、豆腐に箸を伸ばした、ハナさんの、気持ちは沈んでいる。なぜなら、つい数日前に上下の総入れ歯をなくしてしまったからである。

先日、友人に誘われて、久々に新年会に参加した。年甲斐もなく、はしゃいでしまった。結構飲んだ。お屠蘇に始まり、ビールにワイン、そのときの気分は、もう最高。まさしく、尾崎紅葉の句「屠蘇の酔大福長者となりにけり」。そこでやめておけばいいものを、調子に乗ってカラオケへ。

何曲か歌った頃から気分が悪くなり、トイレで戻してしまった。後の記憶は、定かでない。はっきりしていることは、入れ歯をなくしてしまったということ。

一晩明けて、二日酔いの重い頭で、箪笥の奥にしまってあったはずと、古い入れ歯を探した。あった。少しカビくさい茶封筒。中の入れ歯を取り出すと、台所の流しで丹念に洗った。怖ず怖ず、口に入れてみる。果たして、拍子抜け。さほど、痛みは感じないが、低い。「入っているのか」と訝るほど、低く感じる。洗面所に行って、鏡を覗き込む。

「ワッ、老けた!シワだらけ!」

慌てて、その古い入れ歯を口から取り出して、まじまじと見直す。確かに私の入れ歯には違いない。なくした入れ歯より、ひと回りもふた回りも小さいような気がする。箪笥に入れてあったので、縮んだのであろうか……。そんなはずはあるまい。

悔やんだとて、あとの祭り。近所の薬局を避けて、少々遠くの知らない薬屋へ足を運ぶ。知り合いに会うとばつが悪い。薬屋にあった入れ歯安定剤を、とりあえず全種類買ってきた。ひとつつけては鏡を見て、また別の安定剤をつけては、覗き込む。シワの一、二本は消えただろうか。

明くる朝、悩んだ末に、近くの馴染みの歯医者ではなく、友人の話していた新しくできた歯医者に行くことにした。馴染みの先生には、申し訳がたたない。酔ってなくしましたなんて、恥ずかしくて言えない。

その新しい歯医者は、なんでも入れ歯がうまいらしい。新しいといっても数年経つそうだが、総入れ歯が得意と聞く。バスから降りる頃には、お昼近くになっていた。

その診療所は意外にも、和風の建物であった。初めての歯医者を訪ねるときには、不安が募る。勇気がいる。勇気を出して、戸を押す。

「こんにちは」

明るい声と、明るい笑顔に救われた。ホッ、安堵。

「こちらに、お名前をお書きください」。

渡された紙に、名前と生年月日を書き込む。「石山ハナ 昭和3年9月」とここまで書いて、気がついた。ひょっとして、今年は数えの77歳。喜寿のお祝いの年じゃない。「どうなさいました?」の問いには、「イレバをなくした」と書き込む。

「しばらくお待ちください」

と言われ、しばし佇む。あら、ここには、畳の待合いもあるのね。椿が生けてあるわ。侘助かしら、なかなか、感じいいじゃない。

「石山さん、どうぞ」

の声に、ハッとわれに返り、立ち上がる。

「なくされたとは、大変ですね」

結構、爽やかそうね、この歯医者。まだ若いんじゃないの。本当に入れ歯が上手なのかしらと、不安と期待を抱きながら、勝手に思いを巡らす。

「はい、そうなんです。仕方なく、箪笥から古い入れ歯を引っぱり出して、入れてます」

「食べるとき、痛くはないですか?」

あら、嬉しいね、こちらの気持ちを汲んでくれるとは、信頼できそうかも。

「はい、何とか,食べてます」

「ゆるくはないですか?」

おやおや、痒いところに手が届くようなことを、ちゃんと聞いてくれるのね。

「薬局で買った、安定剤をつけました」

「新しい入れ歯は、すぐにはできません。まずは、この義歯で痛くなく食べられるようにしますね。どうぞ、あちらの椅子へ」

「せっかく薬局で買って、つけられた安定剤ですけど。これからの処置に支障をきたしますので、外しますよ」


その日の午後、茶飲み友達と入れ歯談義に花を咲かせていると、電話が鳴った。

「石山さん、入れ歯は痛くないですか?」

「大丈夫ですよ。ありがとうございました。いま、近所の友人とお茶しながら、話してたんですよ。それにしても、わざわざ電話まで……」

 つづく



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