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医歯薬出版「歯科技工」2004.6月号に掲載


さほど湿気もなく、心地よい風が吹いてゆく。袂をぬける風が気持ちいい。正月明けから通い始めた入れ歯の治療も、やっと完成の日となった。つい先日、診療所から、義歯の完成と、新義歯装着後にみなとお昼を御一緒に、との電話があった。「何、着ていこうかしら」。前の晩ハナさんは、迷い考えて、和服を選んだ。「雨はいやだわ」。果たして、その日は、薄日のさす程度の、好天であった。

「石山さん、こんにちは」

受付の女性の言葉に、少々驚きの気持ちがうかがえる。待合いには、お昼前ということもあってか、待つ人は誰もいなかった。よかった。「和服着ていて、ひとり浮いたらいやだな」と、思っていたからである。

「石山さん、どうぞ。着物、お似合いですね」

「こんにちは、お昼、鮨屋さんに……と聞いてましたから」

しかし、本心は、違う。嬉しくて、しゃんとした身なりで来たかったのだ。

「こんにちは。やっと、完成しましたよ」

「そうですね、半年近くかかりましたね」

「お着物は、ご自分で選ばれたのですか?」

「はい、近頃、着る機会もなかったもので……久しぶりに……」

「これが、石山さんの完成した、お鮨入れ歯です。きれいでしょ」
確かに、その歯は、きれいな歯だった。なにかしら、もし蝋人形の入れ歯があれば、こんな歯かなと思うくらい、なにかこう、生きているようにも見えた。

「まずは、馴染むまで、二、三分、そのままで。そのあと調整しますから。うがい、どうぞ」

うがいをし終えると、ゆっくり噛んでみた。痛みはない。なぜかしら、上の歯は軽く感じる。誂えの足袋を履いたときのように、ピタッとしている。まさしく、大きくなく、小さくなく、きつくなく、緩みもなく。もう一度、うがいしてみる。もうすでに、馴染んでいるように思える。自然に笑みがこぼれるのが、自分でもわかった。

「どうですか?」

「気持ちいいですね、ぴったりしてます」

「けど、石山さんのはお鮨入れ歯ですから、お昼を食べてみないと……(笑)」

「…………」

「食べてみなくても、わかりますわ」と、お礼を言おうとして、言葉が出なかった。言葉の代わりに、涙が出た。

「この赤い紙で、噛み合わせを確認します。これを海苔と思って噛んでみてください」

「この砂は、噛み合わせの微調整用の砂です。まさしく、砂を噛むようで味気ないのですが……」

半時もしないうちに調整が終わると、スタッフの方ともども診療所を後に、お鮨屋さんに向かった。

「いらっしゃい。石山さん」

あら、どうして私の名前を知っているのかしら、お鮨屋さんが……。

「ハナさんスペシャルです。どうぞ召し上がれ」

「石山さん、先日スタッフが、お鮨の話をしたでしょう。実は、あれは、石山さんの好物を聞き出すためだったんです。ハナさんスペシャルは、石山さんの好物ばかり握ってもらってありますから。どうぞ、遠慮なく」

「…………」

「この、鰯なんか最高だよ。梅雨時の鰯が、一番うめんだよ」

「ほんと、おいしい!」

「その言葉を聞いて、安心しました。その言葉で、僕の治療はひと区切りです。」


ハナさんは、考えた。なぜ今日のお鮨はおいしいのだろうか? もちろん、みなさんの気持ちも嬉しいし、御馳走してもらっているし……。

大将の声で、はたと気づいた。お鮨、好物、大将の江戸弁。この三つが、おいしさを増幅させているのではなかろうか。


「みなさんありがとうございました。お礼にキスを!」

「……?」

「先生、勘違いしないでください。鱚の握りのことですよ(笑)」

「ハハ、そうですか。では、遠慮なくいただきます」



 つづく
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