さほど湿気もなく、心地よい風が吹いてゆく。袂をぬける風が気持ちいい。正月明けから通い始めた入れ歯の治療も、やっと完成の日となった。つい先日、診療所から、義歯の完成と、新義歯装着後にみなとお昼を御一緒に、との電話があった。「何、着ていこうかしら」。前の晩ハナさんは、迷い考えて、和服を選んだ。「雨はいやだわ」。果たして、その日は、薄日のさす程度の、好天であった。
「石山さん、こんにちは」
受付の女性の言葉に、少々驚きの気持ちがうかがえる。待合いには、お昼前ということもあってか、待つ人は誰もいなかった。よかった。「和服着ていて、ひとり浮いたらいやだな」と、思っていたからである。
「石山さん、どうぞ。着物、お似合いですね」
「こんにちは、お昼、鮨屋さんに……と聞いてましたから」
しかし、本心は、違う。嬉しくて、しゃんとした身なりで来たかったのだ。
「こんにちは。やっと、完成しましたよ」
「そうですね、半年近くかかりましたね」
「お着物は、ご自分で選ばれたのですか?」
「はい、近頃、着る機会もなかったもので……久しぶりに……」
「これが、石山さんの完成した、お鮨入れ歯です。きれいでしょ」
確かに、その歯は、きれいな歯だった。なにかしら、もし蝋人形の入れ歯があれば、こんな歯かなと思うくらい、なにかこう、生きているようにも見えた。
「まずは、馴染むまで、二、三分、そのままで。そのあと調整しますから。うがい、どうぞ」
うがいをし終えると、ゆっくり噛んでみた。痛みはない。なぜかしら、上の歯は軽く感じる。誂えの足袋を履いたときのように、ピタッとしている。まさしく、大きくなく、小さくなく、きつくなく、緩みもなく。もう一度、うがいしてみる。もうすでに、馴染んでいるように思える。自然に笑みがこぼれるのが、自分でもわかった。
「どうですか?」
「気持ちいいですね、ぴったりしてます」
「けど、石山さんのはお鮨入れ歯ですから、お昼を食べてみないと……(笑)」
「…………」
「食べてみなくても、わかりますわ」と、お礼を言おうとして、言葉が出なかった。言葉の代わりに、涙が出た。
「この赤い紙で、噛み合わせを確認します。これを海苔と思って噛んでみてください」
「この砂は、噛み合わせの微調整用の砂です。まさしく、砂を噛むようで味気ないのですが……」
半時もしないうちに調整が終わると、スタッフの方ともども診療所を後に、お鮨屋さんに向かった。
「いらっしゃい。石山さん」
あら、どうして私の名前を知っているのかしら、お鮨屋さんが……。
「ハナさんスペシャルです。どうぞ召し上がれ」
「石山さん、先日スタッフが、お鮨の話をしたでしょう。実は、あれは、石山さんの好物を聞き出すためだったんです。ハナさんスペシャルは、石山さんの好物ばかり握ってもらってありますから。どうぞ、遠慮なく」
「…………」
「この、鰯なんか最高だよ。梅雨時の鰯が、一番うめんだよ」
「ほんと、おいしい!」
「その言葉を聞いて、安心しました。その言葉で、僕の治療はひと区切りです。」 |