2000.05.29
「スイスからイタリア」
 まずは訂正、大間違い。その弐で、ユングフラウヨッホについて、エビアンのボトルの・・・と書きましたが、誤りでした。書いたあと気になって問い合わせたところ、ボトルの絵はフレンチアルプスをイメージしたものであって、ユングフラウヨッホとは関係ないとのことでした。すみません。
 気を取り直して、ローザンヌ。さて駅からタクシーでホテルへ。ホテルの名は「シャトー・ド・シー CHATEAU D OUCHY」。見るからにシャトーです、正面玄関わきの花壇には何と、黒いチューリップ、少々不気味な予感が・・。各々チェックインし、部屋へ・・。夕御飯のためロビーに集合、皆が口をそろえて「部屋に何かいる!」。
 晩御飯はホテルのガーデンテラスで、シェフおすすめの魚介類のシャブシャブ。まあ、はっきり言っていまいちでした、ワインはなかなかでしたけど。食べている途中から突然の雨、不気味さがアップ。足どり重く各自部屋へ。部屋に戻ると水の音がポタッポタッ。窓の外は雷・・。部屋は広いし、物入れらしき扉はたくさんあるし、ベッドはふたつ。絨毯のゆかは何かしらでこぼこしてるし、バスルームのタイルはヒヤァとしてるし。水の音はトイレが原因でしたのでタオルを使ってなんとか解決。しかしながら、なんか出てもおかしくないような一夜でした。無事に朝を迎え、レマン湖のほとりを散歩。少々曇っていたので爽やかな朝、とは行きませんでしたが、今日はイタリア、ミラノへ、すでに気分はアモーレ、カンターレ、マンジョーレ!
 5/5午後1時頃ミラノ駅到着、結構向こうの列車は遅れますね、あまり気にしていない様です。駅の中はゴチャゴチャ、駅前もせわしい。まずはタクシーで歯科診療所とラボの見学へ。ミラノのど真ん中に位置する歯医者さんでした。見学のあとはお目当ての「最後の晩餐 L’Ultima Cena」に。感動でした、大感動。もちろん最後の晩餐も今世紀最大の修復作業により、完成後500年を経て初めてその真実の姿を現したそうで、圧巻でした。しかしほの暗い照明の中で、しかも15分という限られた時間での鑑賞は、その凄さを充分に味わうには限度があったように思います。この最後の晩餐はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁にあります。この修道院の本堂が大感動でした。この感動は京都三閣のひとつ、飛雲閣のなかの茶室に足を踏み入れたときの感動に似ていました。目に入る光、流れる空気、耳に届く音、全てが神の庇護を体感させるものでした。


2000.05.24
「スイスのこと-その弐」
 4/29に成田を出て、今日5/3は折り返し。午後4時過ぎにインターラーケンに到着、部屋にチェックインしテレビをつけたら、あら、ビックリ。バスジャック。衛星有料放送のチャンネルでNHKもインターラーケンで見ることができます。この街はいかにもアルプスの麓という感じの街で、ドイツやチューリヒには石造りが多かったのですが、ここではログハウスが結構、見られます。夕方から近くのレストランへ、みんなでぞろぞろ。アルプスの山々を遠目に見ながら、レストランのおばちゃんオススメのワインと肉料理に舌鼓を打ちながらの夕食でした。オープンガーデンで食べながら、外を見ていますと、日本人観光客がぞろぞろ、自分たちのことは棚に上げて、日本人が多いものだと。不思議なことに、母、娘らしき組み合わせが多く目につきました。母の日が近いので旅行社が企画したのでしょうか。
 翌朝、早めにホテルをチェックアウト。登山列車でユングフラウヨッホヘ。皆さん御存じ、エビアンのボトルに描いてある三つの山の真ん中と右側の山の間の場所になります。登山客の中にはスキーを担ぐ者、橇をひく者、まだここには冬が残っていました。車窓からの風景はまさしく絵はがき。時間がゆったりと流れ、下界のせわしさや、水や空気の汚れとは無縁かのような世界。がけを流れ落ちる一筋の雪解け水が二筋となり、三筋となり、小川となる。その水に目を覚まされたコケや小さな花々、その中で大自然と解け合うように生活する人々。鳥の声、牛の鳴き声、谷を渡る風、天然の音のみからなる生活音。勿論、実際にそこに住む人にしてみればいろいろ不平不満、大自然の厳しさに対する思いは有ることでしょう。遠くには氷河の削りだした雄大なオブジェ、空はあくまでも高く、青く、清らか。一度でよいから住んでみたい、と思いつつ下界へ。
 ユングフラウヨッホのあとは列車の乗り換えに継ぐ乗り換えでした。インターラーケンからスピーツ、スピーツからツバイジーメン、ツバイジーメンからモントレー、モントレーからローザンヌ。ローザンヌに向かう列車の窓の外は葡萄畑が延々と、所々に醸造所らしき建物、シャトー。ここ数日飲んでいるワインはこの地方の産かなと思いながらしばしまどろむ。ローザンヌに着くと、そこはもう完全にフランス語圏、駅前の標識から街ゆく人々の言葉まで、全部フランス語。タクシーでホテルへ。ホテルについてはあしたのこころだあ。

[付記] 実は気になって、エビアンに問い合わせたところ、エビアンのボトルの山々は全く別の山でした。インターラーケンのホテルでもらったパンフレットの絵と、エビアンのボトルの絵がそっくりだったため、勝手に早とちり。エビアンの方はフレンチアルプスをイメージしたとのことでした。すみません。


2000.05.20
「スイスのこと-その壱」
 ドイツでの研修のあとは、急ぎ足のスイスでした。チューリヒ、インターラーケン、ローザンヌにそれぞれ一泊ずつ。
 オーラル・アート研修所をあとに、グタスローの街であわただしく買い物。リモワが安い。アウトバーンの途中から大粒の雨が降りだしたにも拘わらず、猛スピードで突っ走るタクシーの運転手に怯えつつ、何とか無事にハノーバー空港に到着。ハノーバーの街はもうじき始まる2000年万博に向けて最後の調整という感じでした。ハノーバー空港からスイス・チューリヒまではスイスエアーの子会社クロスエアーでのフライト。この会社は初めて。ジェットエンジン併用のプロペラ機、入り口のうえに、クオリティをテーマにしているようなことが書いてあり、期待しつつ機内へ。通路をはさんで二座席ずつの小ぶりの飛行機でした。何とシートがレザーシート、期待が少しずつ膨らみます。迎えてくれるステュワーデスの温かい笑顔。約90分のフライトでしたが、軽食の中のデザートの質の高さ、しかし何と言っても特筆すべきはスイスワインの美味しさ!!白を飲みましたけど、ドイツほど甘さが強くなくイタリアほどドライではなく、また飲みたい、また乗りたい。チューリヒ空港に着いて、部屋にチェックインしたらもう24時をまわっていました。
 早朝、チューリヒ湖までの散歩。いつ来てもここの空気は新鮮・清澄です。午後からの自由行動に備えて店の下見をしながら、ホテルへ。午前9時よりチューリヒ大学歯学部の見学。大学に行くといくつかの建物の全面に洗濯物、白いTシャツ、白いズボン。聞けば、病院勤務職員のストライキで、抗議の意味での洗濯物。
 ピーター・シェラー教授自らガイドして下さいました。歯学部は改築中で、何と総予算が 800億円。現在、半分の 400億が調達済みで工事中、残り半分は工面中とのこと。このチューリヒ大学歯学部は特に総義歯では歴史のある有名な歯学部です。スイスでは補綴物(冠や義歯など)は、保険外の治療となります。大学病院では学生が治療する場合は、患者さんは材料費のみの負担で治療費はただ、ただし一筆書かされるそうです、何が起きても文句言いませんと。そして、助手、助教授、教授となるに従って治療費は高くなる。患者さんは、自分の希望と懐具合を見て選べるわけです。シェラー教授の奥様(日本女性)がおっしゃっていました、「スイスの方が民主的でしょ」。
 話は少し飛びますが、スイスは腕時計が有名です。歯科の講義を聞いていて思いました。スイスにはもともと高い金属加工技術があって、たまたま腕時計にその技術が生かされた。歯科にも同じことが言えるみたいで、高い金属加工技術を十二分に歯科にも生かしている。少々専門的になりますが、部分床義歯の金属フレームのスライドで、どこで蝋着したか解らないので質問すると、ワンピースキャストですとの答え。うーん、さすがスイス。
 大学をあとに、Mr.ウィリーゲラーのラボを見学して、チューリヒ市内でちょっとお買いもの。駅前のスタンドで買ったソーセージを頬張りながら、午後二時過ぎの列車でインターラーケンに向け中央駅を出発。次はインターラーケン。


2000.05.18
「ドイツのこと」
 去る連休を利用してドイツ、スイス、イタリアに研修に行って来ました。まずドイツについて。
 4/29土曜日の出発で、今回、はじめて成田を夜に飛び立つ便でした。実は帰りもパリを夜中に飛び立ったのですけど、夜のフライトはなかなか快適ですよ。時差ボケもほとんど出ませんでした。あの超有名なソムリエ田崎さんも同じ便でした。慣れている人は、結構、深夜便を利用しているのかも。パリ、シャルルドゴール空港に早朝着いて、空路ハンブルグへ。ハンブルグ空港からはタクシーでハンブルグ駅へ。かなり大きな街ですね、ハンバーグ屋さんが沢山あるのかと思いつつ、二、三十分で駅到着。ハンブルグ駅も石造りの大きな建物でした、駅構内のお店で昼御飯を買い込んでホームへ。ハンブルグを出発しハノーバーで乗り換えて、目的地のグタスローへ。ちなみにこのグタスローは人口7万人くらいの街で、多くの日本の地図帳には載っていません。列車の車窓からはいたるところに菜の花畑の黄色の絨毯がどこまでも広がります。ドイツに行くといつも思うのですが、本当に山がありません。グタスローに着くとセミナーの主催者Mr.クラウス・ミュタティースが自らお出迎え。駅前のパブでビールを一杯飲んで宿舎へ。
 ホテルの建物は、もともとその土地の庄屋さんのお屋敷とかで、築300年以上経つもの。すぐ裏には800年以上も前に建てられた修道院。ホテルと修道院の間の広場では近くの幼稚園が「花祭り」をしていました。この季節、ドイツは花盛りで、待ちに待った春を祝う「花祭り・ブルーマフェスト」が至るところで催されるそうです。部屋から覗くと、民族衣装を身に纏い、輪になって踊っています。屋台も出ています。夕方からセミナー開始。
 カルノは出張先での朝のジョギング・散歩を趣味としています。この朝も小一時間ほどの散歩。ドイツの道は、車道があって、グリーンベルト、人道があって、グリーンベルト、そして家屋敷。フランクフルト近郊のドライアイヒでは、さらに駐車スペースが車道と人道の間にありました。なぜだろうと考えました。カルノの勝手な解釈は、馬車。もちろん土地が広いということもあるでしょうけど、おそらく、歴史的に馬車が主なる交通機関であったため、昔から車道と人道が作られていた。それに対して日本の場合は、その昔、徒歩が主なる交通手段であった。このため車道と人道の区別はない。
 いずれにせよ、ドイツに行くと物質的な豊かさではなく、精神的な豊かさを感じます。日本の地図帳に載ってないような街に来る人間よりも、日本を訪れることはなくともそこに住む人々の方がきっとクオリティオブライフは高いのでしょう。次回はスイス。


2000.05.15
「ヘミングウェイという名の・・」
 またまたゲッキになりました。ところで、皆さんはヘミングウェイと聞けば何を連想されますか?もちろん「老人と海」でノーベル文学賞を受賞したアメリカの作家。近所のバー、お気に入りの喫茶店、行きつけの洋服屋さん・・。今回のヘミングウェイは万年筆のお話です。
 「ヘミングウェイ」という名の万年筆は、モンブランが1992年に世に送り出した、作家シリーズ第一号の万年筆です。クールなニッキ最新号のうえに登場する、あの万年筆です。実は、カルノ、将来作家になろうと、前々からErnest Hemingwayには興味を持っていました。別に、全作品読破とか、作家徹底研究とかじゃなく、ただ何となくあこがれていました。彼の死んだ年に生まれたことも、なにか縁があると勝手に思いこんでいました。そのヘミングウェイの名を冠した万年筆が世に出たとあらば、カルノの物欲が刺激されないわけがありません。しかし、何か口実がないと何万円もする万年筆ですから、おいそれとは買えません。そんなおり、ラッキーにも懸賞論文に入選しました(義歯は人伝 弥生卯月 参照のこと)、なんと賞金まで。この賞金を手に、将来の夢のためにも躊躇なく「ヘミングウェイ」を買いに行きました。今回、この「ヘミングウェイ」の本を見つけたのです、もちろん躊躇なくゲット。世の中には、いろいろな楽しい人がいらっしゃるものです。三度の飯も箸でなく、万年筆で食べかねないほど、万年筆を愛している人々の本です。その名も「4本のヘミングウェイ」。嬉しくなって、まだ本を読んでもいないのに、手紙を書きました。御丁寧にもお返事を頂きました。本によるとその方の4本のヘミングウェイには、異なった色のインクが入っているとのこと。お返事のインクの色はボルドーレッドという名の赤。まさしくボルドーワインのようなきれいな色です。ここまで読まれて、だから何なの?と聞かれそうですが。そこに山があるから登るんだ、と名言を吐いた登山家がいるように、「ヘミングウェイ」という名の万年筆がある、ただそれだけのことです。パソコンで文を書くようになった今、たまに「ヘミングウェイ」を取り出して手紙を書くと妙に神妙な気持ちになります。かの鈴木健二さんがある本の中で、日本語の中で一番きれいな言葉は「わたくし」である、と書かれています。「わたくし」のあとには決してぞんざいな言葉は続かない、自ずときれいな言葉がつながる、ゆえに「わたくし」が一番きれいな言葉である、ということらしいです。同感です。万年筆を手にすると、これに似た気持ちになります、かといって筆の歩みが遅くなるわけではありません。贅沢にものを書く、それが万年筆なのかもしれません。