歯科技工 第3号 平成11年3月1日発行

 弥生 1999/03 「あなたがいれば」



 今月のサブタイトル「あなたがいれば」は、かれこれ7年前に書いたエッセイの題名で、九州電力の懸賞論文に応募したところなんと入選して賞金まで頂きました。
 この時の論文テーマは「作る」。臨床での出来事をヒントに義歯製作のことを書きました。
 あなたがいれば--あなたが居ればこそ、あなたが要れば(私たちのことを必要とされるなら)、あなたが入れ歯。いろいろな思いを込めての「あなたがいれば」です。今月と来月の二回に分けてお送りします。

「あなたがいれば」- 義歯をつくる

福岡ウメさんが来院したのは、春先まだ少し風の冷たい午後のことだった。ウメさんは診療台に座るなり不機嫌そうな顔を僕のほうに向けた。質問表を見ると、福岡ウメ、77歳、住所は 喜入町、主訴はものがよく噛めない。
 「福岡さん、どげんしゃったと?」
 「いとしてかめん」
ウメさんは、上下とも総入れ歯で、その入れ歯は、見るからに古そうなものだった。
 「いつごろ作ったと?」
 「覚えちょらん」
聞くと、その入れ歯は10年以上も前に作ったとのこと。1年ぐらい前に新しく作ったが合わずに、結局古いほうを入れているのだという。
ウメさんは、この10年の間に作ったという上下3組の入れ歯を持ってきた巾着の中から大事そうに出して見せてくれた。そして1組ごとに、作った時期、歯医者の名前、どういうふうに合わなかったかを話し始めた。
ひとしきり話し終えると「ふー」とためいきをついた。そのときにはもう不機嫌そうな表情は消えていた。10年前の入れ歯には、お嫁さんが近くの薬屋さんで買ってきてくれたという義歯安定剤が、ウメさんの今までの苦労を物語るかのように、モザイク状にはり付けてあった。
長年合わない入れ歯を使ってきた人の場合、すぐ印象をして新義歯を作成しても失敗することが多い。このため、粘膜調整剤を使って合わない原因を一つ一つ解明していく必要がある。先ず粘膜調整剤を上下の義歯に付け、咬んでも痛くないようにしたのちに咬み合わせを診る。
古い義歯はおおかたの場合入れ歯の人工歯どうしが磨り減っている。咬み合わせが低くなると口元にしわが増え、よけいに年取って見える。もちろん噛みにくい。咬み合わせを元に戻すためにレジンを磨り減った人工歯の上に盛る。レジンが固まって形を整えると、とりあえず噛める入れ歯の出来上がりである。
 「福岡さん、どげんね」
 「いとなかごた」
やっとウメさんの顔に笑みが出た。粘膜調整剤とレジンの調整を2、3日おきに数回繰り返す頃には、初診時には見られなかった和やかな表情になっていた。
初診から2週間もたつ頃には普通のものならほとんど食べられるようになり、冗談の一つも口から出るようになった。そろそろスナップ印象である。粘膜もかなり引き締まり、咬み合わせもしっかりしてきた。
 「福岡さん、今日は型取りをするけんね」
 「いつできっと」
 「すぐにはできんよ」
何でもそうであるが、良い物を作るためには手間暇をかけないと無理である。上顎はアルジネート、下顎はコンパウンドで印象した。
この印象に石膏を流しスタディモデルを作る。このスタディモデルで患者さんの口の状態を診断し、咬み合わせを決めるための咬合床を作る。スタディモデルからは実に様々なことが分かる。どの歯から抜かれていったか、咬むときは右で咬むのか、左で咬むのか、今までどういう入れ歯を使ってきたかなど。診断した後に、入れ歯の土台に当たる咬合床を作り、その上に入れ歯の歯に相当する部分をピンク色のロウで形作る。
今度は咬み合わせを決める咬合採得である。
 「福岡さん、どげんね」
 「よかよ」
 「今日は、咬み合わせをみるけんね」
まずある程度咬めるようにした旧義歯を口腔内に入れ、口を閉じさせる。ここで重要になるのが患者さんの顔貌を診る歯医者の目で、口もと、くちびるの厚さ、口のまわりの皺、顔全体と口との調和、横からみたくちびるの張りなどを、歯が有ると仮定して診なければならない。このとき患者さんが緊張していると必要以上に咬み込んでしまうので、リラックスさせ、そして患者さんの数ある表情の中から柔和な表情をいかに引き出すかが重要となる。
青マジックで鼻の下とおとがいに点を付け専用の物差しで測る。ぼくらは慣れてくると患者さんの咬み合わせの1ミリ低い、1ミリ高いが物差しをあてなくとも解るようになる。
一時期、電車やバスに乗ると年配の人の口もとばかりを見ていた。1ミリの差が、その人の表情を驚くほど変えてしまう。若くもなれば、年寄りにもなり、怒った顔にもなれば、和んだ顔にもなる。

   以下来月に続く・・・

平成4年 九州電力募集論文
論文テーマ「作る」入選作品


今月の義歯食 「海千山千」(うみせんやません)
海千山千
*ドレッシング(4人分)
サラダ油---大さじ6
酢---大さじ4
塩---小さじ11/3
こしょう---少々
砂糖---ひとつまみ
★市販商品ではJA宮崎のピーマンドレッシング、
宮崎県諸塚町のしいたけドレッシングがオススメ
です。
本を読んでいたら次のような句に出会いました。
 寄鍋や 海の蛤 山の茸 (吉波泡生)
少しずつ温かくなり鍋もそろそろ終わりかなというこの頃です。
そこで今月は海の幸山の幸盛りだくさんのサラダ。名付けて「海千山千」。
作り方はきわめて簡単。少し大きめの皿にまず山の幸を。野菜、きのこなど何 でも。次に山の幸の上に海の幸を。刺身は通常の半分くらいの大きさに、赤身、 白身、いくら、うに、など何でも。場合によっては、イカ、タコは避けて。好 みによってドレッシングを。
海千山千のねらいはただ一つ、色彩です。ややもすると低下しがちな味欲(味 わおうする欲求)を視覚を通して刺激。皿は白めの無地、野菜にはトマトやか いわれ、緑黄野菜。魚は少し小さめに切ることによって色とりどりに。できれ ば真っ赤なりんご、まっ黄色なバナナなどをテーブルに飾ればさらに色とりど り。新鮮な野菜であればシャキシャキの歯触りも耳を通して楽しめます。


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