歯科技工 第4号 平成11年4月1日発行

 卯月 1999/04 「あなたがいれば(後)」



 今月も、7年前九州電力の懸賞論文で入選したエッセイ「あなたがいれば」の後編を、総義歯患者福岡ウメさんの新義歯の咬合採得の途中からお送りします。

「あなたがいれば」- 義歯をつくる(後)

まず上顎を決める。このとき難しいのが前歯の長さである。唇の皺を参考にするがそう簡単には決められない。唇の厚いひと、薄いひと、唇のかたいひと、やわらかいひと、様々である。さらに、写真を撮るときの「はいチーズ」のように笑ったとき、しゃべるとき、あくびをしたときなど表情にあった前歯の長さを決めなければならない。上顎が決まると次は下顎である。ロウを軟らかくて咬んでもらう。
 「福岡さん、高くなかね」
 「ちょっと、たかかごた」
ロウの部分を、アルコールランプで温めたへらで少しずつ調整していく。
 「福岡さん、今度はいけんね」
 「あんまわからん」
だいたいわからないと答えるときは、正しい高さである。なぜなら、患者さんにしてみれば高いの低いのということは、日頃考えもしないことである。つまり、高すぎたり、低すぎれば日頃と違うためわかるが、そうでなければわからないのである。
 「カチカチ咬んでごらん」
カチカチと元気よく上下に咬めれば問題ないが、ときに横で咬んだり、前で咬んだりする患者さんがいる。こういうときは日を変えてやり直す必要がある。
こうやって決めた咬み合わせの模型を、咬合器に付け人工歯を排列してゆく。おおかた、上の前歯から並べてゆく。性別、年齢、顔貌との調和を考慮して歯を選び、並べてゆく。男性なら力強く、女性なら優しく、若ければ白めの歯を、年配なら少し黄色めの歯を、という具合いに。まず、上顎だけ全部並べる。
 「福岡さん、もう1回型取りするんね」
 「何べんでもよかよ」
福岡さんもかなり協力的になった。今日は、上顎の試適と機能印象である。
 「福岡さん、前歯はどげんね」
 「もちっとわこう見ゆっごつ」
不思議なもので、女性は幾つになっても若さや美しさを追い続ける。しかし、これは非常に大切な事だと思う。機能印象とは動きにあった型を取ることである。義歯の役割の一つは、ものをかみ砕いてすりつぶす事で、すなわち、食事中の義歯は口腔内で動いている。義歯が合っていなければ咬んでいるうちに痛みが出る。咬んでも痛くなく、動いてもずれないような型を取ることは至難の技である。上顎は、下顎に比べると比較的取りやすい。上顎の機能印象が終わるともう一度咬み合わせを確認する。確認して取りだした模型を技工所に出す。技工所とは義歯の工房のような所で、作業場とアトリエの合い子のような雰囲気を持つ。石膏やロウが床に落ちていて、研磨器や鋳造器があるところを見ると作業場、金や銀を磨き陶材を焼いているのを見るとアトリエ。ここで、上顎だけ先に仕上げてもらう。
 「福岡さん、今日は下の型取りね」
 「まだとっとね」
 「下は、わっぜむつかしかと」
下顎は、真ん中に舌があり、咬んだ時の力を受けとめつつ動きやすいため、非常に難しい。このため下顎の機能印象は総義歯の醍醐味の一つである。
 「福岡さん、アッカンベーばしてん」
機能印象で、いかに舌の運動を再現するかがポイントとなる。意外な事に総義歯の患者さんは、アッカンベーが下手である。舌が伸びない。舌を出すと義歯が飛び出しそうになるため下手になったのかもしれない。
 「福岡さん、ご苦労様、おわりやっど」
 「おまんさあも、だれもしたな」
 「こん次は、出来上がりやっで、期待しときやんせよ」
手応えのある機能印象は見るからに美しく、生体的な曲線を描いている。官能的なフォルムだ。自分ではアートしている気分である。そして、良い義歯ができますようにと祈りながら技工所に送る。
一週間ほどして技工所から完成した義歯が送られてきた。既にウメさんの初診日から2ヶ月近くの時が経っていた。窓の外は、春爛漫である。
 「福岡さん、できたよ」
 「じゃっどなあ」
まず上顎から入れる。
 「上はどげんとね」
 「きもちのよか」
時々、患者さんこの言葉を聞く。良く合った上の義歯は気持ちがいいのだそうだ。ある患者さんいわく、自分の足にぴったりの足袋をはいているみたいだと。
 「ゆるなかね」
 「吸いついちょ」
次に下顎を入れる。
 「ゆっくりと咬んでみてん」
 「いとなかよ」
患者さんは、はじめ恐る恐る噛み、痛くない事がわかるとしだいに力を入れて噛みだす。カチカチの音が元気よく聞こえてくるようになればしめたもの。
 「ま、これでかえっせ、いっと、たもんみやんせ」
実際食べてみないと、こればかりは良いも悪いも言えない。ウメさんは家に戻るとさっそく水屋から器を取り出した。中身は竹の子の煮しめで、ウメさんは2日前から竹の子の煮しめを作り始めていた。竹の子、昆布、人参、いりこがはいっている。箸でゆっくりと竹の子を口元に運ぶ。竹の子の良い香が、鼻をくすぐる。何年ぶりだろう。総入れ歯になって竹の子を口にした事はなかった。口の中に入れおずおずと噛んでみる。入れ歯が竹の子をとらえた。少しづつ力を入れる。痛くない。更に噛み込んでみる。すると、サクッサクッとはいかないが、ザグッという音がして竹の子がつぶれた。舌が竹の子の味をじわっととらえる。もう一度噛む。更に竹の子がつぶれ口の中に味が広がる。甘辛い汁がにじみだすごとに、目頭もじんわりと熱くなった。お茶を一口飲んだ。今までは、小さくくだくことができないため、お茶で流し込んでいた。味わう事など到底無理な事だった。
 「福岡さん、こんにちは」
 「竹の子食べられたよ」
 「良かったね」
 「あんたにも持ってきた」
有難い。何が有り難いかというと、僕の事を信頼してくれている事が有り難い。総義歯の場合、完成するまでも時間がかなりかかるが、完成義歯が口に入ってからも先は長い。これからはいかに患者さんが義歯を使いこなし自分のものにするか、歯科医はそのつど適切な調整をするかが重要で、そのような意味からも患者さんとの信頼関係が重要となる。
 「福岡さん、いとなくても又来てね」
 「又来る」
総義歯の人の中には、あきらめている人がいる。入れ歯だから、痛くて当たり前、しゃべりづらくて当たり前、大きく口を開けると落ちてきて当たり前。しかし本当はそうでなく、噛んでも痛くなく、普通に会話ができ、口を開けて唄も歌えるのが本当である。決して理想を言っているのではない。入れ歯は、眼鏡と同様、人工心臓と同様に立派な人工臓器である。例外も有るが、ほとんどの人の場合、手間暇さえかければほぼ満足のゆく入れ歯はできる。

 「福岡さん、どっかいたかと」
 「ちがう、あんたに柏餅ば持ってきた。こん柏餅はうめよ。」
 「ウメは、おまんさあの名前やが」
 「まこっじゃ」
 「ハハハハ」
いつの間にか柏餅の季節になっていた。
入れ歯を作ることはおいしいを作ること。
 あなたがいれば。

平成4年 九州電力募集論文
論文テーマ「作る」入選作品


今月の義歯食 「大入り満点」
大入り満点
*材料(5、6人分)
キギナゴ 300g
おから 300g
うす揚げ 3枚
味噌 200g
小ネギ 少々
水 2P
酒 少々
噺家はよく縁起をかつぎます。おから(卯の花)は、“から(空)”に通ずるため“大入り”と言ったそうです。そこで今月は名付けて「大入り満点」、きびなご入りのおから汁です。
キギナゴは塩でもみ洗いしさっと湯通し。うす揚げは短冊に、小ねぎは小口切りに。水2Pを沸騰させ、きびなごを入れます。
ひと煮立ちしたらうす揚げを入れ、煮立ったら味噌を漉します。
おからを溶いて、好みで酒で味を整えうつわに。
ネギをちらして、はいどうぞ。


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