1999.07.20
三つの夢
実はカルノには中学生の頃からの三つの夢がありました。まず夢壱は錦江湾横断、夢弐はフルマラソン完走、夢参は富士山登山。父の転勤のため中学校入学は鹿児島県川内市。しばらくして鹿児島市内の小学生が泳いで錦江湾を横断することを知りました。これには驚きました。遡って小学校入学は熊本市、熊本市は水泳の盛んなところで結構鍛えられました。そのカルノにとって錦江湾横断は挑戦すべき魅力有るものとして心に残りました。高校、大学と進むにつれカルノの頭の中にはこれら三つの夢がはっきりと存在するようになりました。ソウルオリンピックの年ですから1988年でしょうか。まず指宿市の菜の花マラソンで4時間半かけてのフルマラソン完走。その年の8月、錦江湾横断遠泳大会完泳。1994年富士山登山遂行。三つの夢は全て現実のものとなりました。1988年以降もほぼ毎年この遠泳大会には参加しています。
さて今年の遠泳大会、天気予報ははずれ朝から梅雨明けを思わせる夏の太陽が顔をだしています。桜島小池海岸から鹿児島市の磯海水浴場までの直線距離で4キロのコースを4人一組となって4人一緒にゴールします。時間ごとの潮の流れを確認し合い、たっぷり日焼け止めを塗ってのスタート。海水は以外と冷たく緊張感がアップします。10:58分第14組でスタート。はじめの1キロは引き潮を上手く使って余裕の1キロでした。昨年は1キロ過ぎからコース取りを誤って制限時間の3時間をオーバーしてあえなくリタイヤ。しかし今年は事前情報よりも潮の流れは緩慢で、順調に2キロ中間点のバルーンを通過。2キロから3キロが最も潮に流されやすい区間、しかしその区間も難なくクリア。ラスト1キロで時計を見るとまだ50分代。ひょっとするとと思いながらラスト1キロを懸命に泳ぐ。残り500メートルを切って300メートル、200メートル、次第にビーチの歓声が耳に届く、深緑の底が次第に砂色に、これは出るぞ新記録、最後は泳ぐというより、かく、もがく。足が着いた、4人手を繋いでのゴール。出ました自己新記録1時間15分。未確認ですが、約180チーム中20位から30位くらいの記録です。ともかく最高に自己満足の記録でした。打ち上げの生ビールの味はもちろん最高。また来年も・・。


1999.07.12
ポストの口
散歩通勤すると色々なものを目にします。細かいことに目がいく質で、今回はポストの口について。ある時ふとポストを見るとポストの口が横を向いています。ポストは歩道の車道側の端に立っていて、口が歩道に直交する向きになっています。歩道と車道は平行ですので車道に対しても直交しています。すなわち口がついている面をポストの顔とするならば、車道と歩道を横目で睨むかのように立っているのです。投函する者にとって特に不便と言うわけではありませんが、何かしら集配する側の都合が見え隠れします。些細なことですが・・・・。
ところで、先日東京出張の折り並木通りを歩いていて気がつきました。緑のポストは見事に赤に変わっていました。きっとペンキの塗り直し中途で下地の色が緑だったのでしょうか(パッションな引き出し 医 1999/0606参照)。ちなみに並木通りのポストは車道を背にして立っていました。


1999.07.05
急がば坐れ
お茶を習い始めてまず困ったことは足が痺れることです。ある時お茶の先生(男性)が「坐禅をするようになって痺れなくなった」と、おっしゃいました。何でもすぐ実行のカルノとしてはすぐ禅寺に行きました。尤もそれ以前から坐禅には興味がありました。ある雑誌で『ビッグな人』の特集があり、政界、経済界、スポーツ界などの著名人を分析していました。共通点を二つ見つけました。まず第一に酒ならこれ、シャツならこのブランド、バーはあそこetc、とこだわりを持っていること。そしてもう一つは参禅していることでした。坐禅にはお金がかかりませんのですぐ行き始めました。早十年経ちます。
『急がば座れ』これは星新一か誰かのショートショートのタイトルだったと思います。日曜日の朝に坐りますので、二日酔いの頭と身体で坐ることも度々。なぜ昨日あんなに呑んだんだ、あの時帰れば良かったのに、最後の一軒は行く必要はなかった、と反省することしきりです。最近になってひょっとすると『急がば座れ』とは坐禅のことではないかと思えてきたのです。急がば座れ、坐っていると色々なことを考えます。無念無想とは言うものの凡人のカルノにとっては邪念夢想です。十年坐って言えることは坐禅の後は非常にリラックスしています。坐禅の最中は決してリラックスはできません、がしかし、終了後は軽い脱力感と安堵感をもってリラックスしています。坐禅の後は近くの温泉で朝風呂です。リラックスリラックス。急がば坐れ。


1999.07.01
風になりたい
「風になりたい」はザ・ブームの唄のタイトルで、カルノの好きな曲のひとつです。久しぶりに走りました。ノルマとして年に4レース出場します。あくまでも市民ランナー、順位よりもタイム、タイムよりも壮快感、壮快感よりも満足感のレベルです。ここ数レースは満足感よりも後悔の方が残りますが。走っていてふと感じました。
歩いていると音をよく感じます。耳をよく使います。つまり色々なものがよく聞こえます。それに比べて走っていると耳よりも鼻です。きのうの練習は海がスタートで山の中で折り返しのコースでした(日南は海と山が隣り合わせ)。スタートは潮のにおい、途中牛小屋のにおい、田圃の側で田圃のにおい、山にはいると山のにおい。鼻が働き始めると耳は休みがちになるらしく、走り終えた時には音よりも匂いの記憶の方が明確に残っていました。ある本に鼻の方がより原始的器官である、とありました。納得です。では、なぜ歩いている時は耳で、走っている時は鼻なのか。カルノの答えは風です。走ると歩いている時よりもスピードがあります、顔の前の空気は勢いよく顔に当たります。このため空気中の匂い物質がたとえ量は少なくとも鼻の中に勢いよくはいってくるためではないでしょう か。
ところで色々な匂いの中にひとつ嫌な匂いがありました。農薬の匂いです。この時期所々で農薬散布の田圃を見かけます。収益性を考えると当たり前なのでしょう。自宅近所にアイガモ農法の田圃があります。いい匂いです、健康な田圃は。青田をわたる風も心地よく、僕もあの風になりたい。