デンタルエコー(松風歯科クラブ機関誌)
1997年9月発行分より

日南海岸の海は
あくまでも青く
浜辺は美しい。
 「つくる」をテーマに募集された論文コンテストで入選された『あなたがいれば』〜義歯を作る〜を読ませていただいた。ストーリーも描写も、うまい!  主人公のウメさんが、出来上がった義歯で、竹の子の煮しめを味わうあたりの描写は秀逸。てっきり作者である歯科医師は年配の方かと思ったら、その若さにビックリ、当時31才だった河野先生。

 その年齢で、フルデンチャーにこれほどのめりこんでおられるのは?

河野
 患者さんの喜びが、ちがいます。手を合わされて「先生、この入れ歯、棺桶に一緒に入れていくからね。」拝むように感謝してくださるのです。

 義歯製作は、卒後すぐにうまくいくとは限らない…

河野 卒業後は、体全体を診る口腔外科医を志して、栃木のある医科大に人局しました。心臓が停止した患者さんにエピネフリンを直接心臓に入れる、これを先輩歯科医ができませんでした、胸部外科の先生がさっと処置するのを目の当たりにして、これは勉強不足ではなく、教育を受けていないからだと気づき、方向転換して、歯医者に戻りました。
 勤務した鹿児島の医院には、離島からも旅館に泊まり込んで来院される。1日4〜5床、1ヵ月に100床、2年間で2000床をセットする、まさに義歯三昧でした。もちろん鹿児島弁しか話さない高齢者ばかりです。
 ある日、セットした患者さんが、受付とは別の勝手口から顔を出して私を手招きします。「にいちゃん、また来たよ。」と言ってくれました。初めて心に触れたような気がして、私は義歯でいこうと決心しました。90才の祖父とオーバーラップするのです。祖父の義歯を作ってあげるのだと、のめりこんでいきました。
 院長先生や技工士さんの仕事への誇りと、職人気質に厳しく鍛えられました。

 方言での会話が描かれています。「こんどはいけんね」「あんまわからん」とか「上はどげんね」「きもちのよか」「ゆるなかね」「吸いついちょ」心理が手にとるように伝わってきますね。

河野 「噛めないから作って欲しい」これは氷山の一角でしかありません。水面下には、ものすごくいろんな思い、悩み、不満、つらさがある。本当に訴えたいことが、たくさん隠されています。

 心を開いて話してもらうには…

河野 総義歯の患者さんに「こんなにやさしくしてもらったのは初めてです。」と涙を流されたことがあります。確かに、高齢者の方は耳は遠い、動作は緩慢、どうしても苛々しますが、「そうじゃない、そうじゃない。“子供叱るな、来た道だもの、年寄り叱るな、行く道だもの”」自分を叱咤激励して「ゆっくりどうぞ、お気ををつけて」と声をかけていました。

 お年寄りには、その言葉が身にしみてうれしかったのでしょうね。

河野 セットして帰られて、食事が終った頃を見計らって「どうですか、食べられていますか?」と電話をしますと、「歯医者さんから電話をもらったことはない。」と驚かれました。次の来院時にいろいろと言いやすいようです。

 食べられるところまでを見届けたいと…

河野 一人暮らしの総義歯の方に尋ねました、「食べられないのはどんなもの?」「ありませんよ。」これを何でも食べられると考えるのは、早合点です。食べられるものしか食べていないのです。自炊されていて「食べられないものは、最初からスーパーの買物で選ばない」と言うのです。生活に立ち入らないとわからないことです。

目印は、屋根の
桜マーク(夜間
はライトが入り
夜桜となる)の
み。ウッディな
たたずまいに、
喫茶店と勘違い
して立ち寄る人
もいる。

しゃれた看板の
裏には、桜歯科
の由来があり、
遊び心を忘れない。

堀炬燵のある
和室の待合室は
ここが歯科医院
であることを忘
れそうなほど居
心地がよい。
午後は、子供達
が宿題を広げる。

後藤 私達が考えていることと、患者さんとは、すごいギャップがあります。考えつかないような悩みを持っておられます。

 例えば?

後藤 頭の後を叩く時だけ、上顎の臼歯が響いて痛い、レントゲンを撮って欲しい。ここで私達が、叩くのをやめればいいのにと言ったら、そこで終わってしまいます。

 響くことへの不安があるのですね?

後藤 レントゲンで何もなければ、安心されます。

河野 「舌で触ると、何かできている。」「口蓋隆起が盛り上がっている」(笑)。これが即、ガンでは?なのです。専門書を見せて「どうもないですよ。」それだけで顔色が明るくなって帰られます。

 「どうもない」だけでは、患者さんの不安な思いは解消されないのですね。

河野 ある方の主訴は「口の中が乾いて、しゃべれない」と来院されました、しかし、口の中は潤っています。本人はベロの病気だと思われて内科へ、内科ではどうもないと言われて、次は喉にお灸を据えに行かれた。鍼灸師の方がうちの患者さんで、それで紹介されて来院。
 診ると、下顎の3か2のブリッジの厚みがあり過ぎて、気になって舌がいつもそこにいく、それでしゃべりづらかったのです。

後藤 その方は「人前で話すと、カラカラになってしゃべれない、これが悩みの種でした。こんなにいろいろ話を聞いてもらったのは初めてです。」と、最敬礼して帰られました。

河野 ある方は、前歯がグラグラしていて、かなりすき間もあったのですが、抜歯した途端、「もう人前に出れない!」

後藤 1本分ではなく、ものすごく大きなすき間が出来たと、鏡も見ずにおっしゃるのです。

河野 最近知ったのですが、抜歯時に、上顎1にきていた三叉神経の枝がブチッと切られて、そこからの情報が脳に行かなくなった。空間のすき間ではなく、情報量のすき間、センサーの欠損です。

 悩みは決して「無茶な訴え」ではない…

河野 口腔内を通してのメンタルヘルスケアだと考えています。口に関する心の悩みは歯医者にしかわかってもらえません。

 心の悩み、即、精神科ではなくて…

河野 義歯の作り方云々だけではなく、口腔内に原因を持つ精神的な問題を解決するのも、歯科です。精神科や神経科の領域も勉強して、かゆいところに手が届くように義歯の痛みがわかる歯医者にならないと、患者さんの義歯に対する評価は、どんどん落ちていきます。

インテリアは、
幼児〜高齢者
の好みが心地
良く共存して
いる。



待合室のチェア
ーは椅子として、
時には、ここか
ら始める小児患
者さんもいる。
 「俳優の○○さんに似ているね。」これは会話のきっかけですか?

河野 加山雄三や森光子さん、若いですよね。顔に対する執着心がちがうというか、理想的な有歯顎の咬合高径を保っています。一方、20年も使用した義歯は当然すり減っています、今の顔を基準に考えてしまうとわかりません。歯が残っていれば、おそらくこういう口元ではないか、こういう顔立ちではないか、その方に少しでも似た俳優、タレントさんをイメージの手がかりにして、より含った咬合高径に導いていきます。適切な咬合高径の顔をイメ一ジできないと、いい総義歯は出来ません。

 粘膜調整の終わった義歯をしげしげと眺める、茶の湯のお茶碗拝見のように義歯の「景色」を見ると表現されていますが

河野 総義歯の人工歯はゼロから上下を並べていきますが、1本1本の角度ではなく、全体で個別をみる、個を見ているようで全体を見ている。咬合の様式はあくまで学問的なものですが、印象にしろ、バイトにしろ、配列して試適でも、パッとみてビビッとくる何か、総義歯は東洋的な肌合いを持つ分野です。その人の顔のイメージ、全体的な姿勢、並べたときにしっくり来るか来ないか、それを私は「景色」と言っています。
 身体の中で遊離した骨は、下顎骨と舌骨だけ、咬筋、咀嚼筋で宙吊りになっていて、総義歯の人はそれが短くなっています。それを適切に導いていくのですから。むしろ、食生活や家族構成を合めた「景色」かもしれませんね。

 患者さんからの、義歯へのリクエストも具体的のようですが…

河野 以前は、総義歯装着者はリタイヤされた人が多かった、今は、総義歯装着者も現役バリバリです。水泳の息継ぎで飛び出ない義歯を、尺八の吹ける義歯を、要望も高まりましたが、趣味とか生活パターンも知らないといけません。歯科医は裏方の職業だなあと考えています。義歯を入れて「詩吟を始めよう」「スポーツを始めよう」これが表舞台です。

 口の悩みを、もっとフランクに話せるようにならないと・・・

後藤 TVのCMも「口、くさ〜い」マイナスの、暗いイメージばかりです。

河野 入院した祖父の義歯を食器洗い場で洗っていたら、「それは洗面所で洗ってくれ!」、残念ながら一般の方の認識の中では、口に入れる義歯は、食器より汚いそうです(笑)。

落合 私も最初のころは、他人の唾液や義歯には抵抗がありました。

河野 日向市の方ですが、交通事故による頸椎損傷で、筆を口でくわえて絵を描いている方の所まで行ってきました。筆圧が入らず水彩のようにサラッとしたものしか描けない、何度も筆を洗うと疲れるから色が濁ってくると、相談を受けたからです。
 筆の柄は全部、竹輪のようにビニールホースが巻いてあります。手に取って何げなく自分で噛んでみました。「僕の噛んだ筆を噛んでくれた人は初めてです!」
 噛んでみてわかったことは、今は、前歯で噛みながら舌で動かして描いておられる。前歯で噛むと疲れます。奥を固定すると、前歯を自由に動かせますから、臼歯部をテンプレートで高く固定してすき間を作ることにしました。



 診療所は、動線がユニークで、無駄がないように見えます。

河野 勤務した診療所が、使いにくくて(笑)。どうしたら使いやすいか、徹底して研究しました。7年経っていますが、飽きがきません。

 あちこちにある、桜をモチーフにした小物、バウハウスのポスターが間仕切りになっています。これって、院長先生が一番楽しんでおられる?

河野 もちろん(笑)。そこで働いている人が楽しくないと、患者さんも楽しいとは思わないでしょう。実は、一番長くいる職員のトイレはウォシュレットです。

落合 ・・・でも、先生の細かな指示に付いていくのは、結構しんどい(笑)。

河野 演出ですからね、ブラインドも時間と季節で、こまめに調節してもらいます。
 言葉使いにも厳しいです。予約時間通りに来られた患者さんに、受付は何げなく「では、しばらくお待ち下さい。」すると「私は2時でしたね。」と患者さん、時間通りに来たことを確認されていたのです。

 落合さんの落ち着いた声と、きりっとした白衣姿は安心感があります

後藤 患者さんは悩みを持って来られますので、受付が若い女性よりは、落合さんのような年代の方が相談しやすいようです。

河野 後藤さんには、カウンセリングの勉強もして欲しいと思っています。

 河野先生の「桜歯科喫茶店」の構想は突飛な気がしたのですが、和室のコーナーの居心地の良さをみたら、意外なことでもない…

河野 転んで膝を切って4針縫った、これは治療(キュア)、擦りむいただけで唾をつけたら治った、これは手当(ケア)、段差があるから気をつけてとコミュニケーション、これだけで怪我をせずにすみます。コミュニケーションの一つが、喫茶店なのです。予防の情報も、楽しく提供したい。

ハッスル隊のノ
ートにスタンプ
を押して、石膏
のおもちゃを一
つ選ぶ、一番真
剣な顔をしてい
る瞬間。

 ハッスル隊について教えてください。

河野 すぐそこが小学校です、桜歯科の前をワイワイ言いながら歩いていきます。子供たちに、歯磨きを無料で開放したのが始まりです。
 これからは予防の時代、ポイントはフッ素塗布と、もう一つは子供たちの靴下です。

 靴下?ソックスの靴下のことですか?

河野 そう、みんなぼくより高価なソックスをはいています(笑)。エンゼル係数は高いのですよ。

 それで有料化にふみきられた…

河野 毎年、12月の第1土曜日がハッスル大会です。カレンダー、手帳、クリスマスプレゼントだけでも、月会費の3000円は消えていきますが。
 ハッスル隊はスポーツジムと同じ、自分の都合の良いときに、いつ、何回来てもいいシステムです。3分磨いて、染め出しして、また磨いて、それからユニットで口腔内チエックとフッ索塗布を行ないます。

 予約なしに?アポイントシステムは?

河野 ハッスル隊は予約なしです。彼らを含んだゆるやかなアポイントシステムです。

 何回来るか、子供たちが自分で決めるのですか?

河野 週に3回来る子もいますが、週1回とか、月2回とか。遠いからとお母さんは渋っているのに、子供が「桜歯科でないといや」と言っているそうです。

 予防効果は上がっていますか?

河野 ハッスル隊に入ってからの永久歯に、むし歯はゼロです。小6までは続きますが、中学生は部活などが忙しくなって中断します。ですから、ピークラ(preventive club)を準備中です。ゆくゆくは、ハッスルの館を作りたい。館長さんには歯科衛生士さん、歯科衛生士さんのキャリアのポジションも用意できますでしょう。

 夢は限りなく広がる…
 写真の子供さんが、チェアーに誘導されてきます。これは時間予約の、私専用のチェアーですか、感激ですね。

河野 撮影する内に、口腔内より、子供の顔の方に興味が出てきて(笑)、最初はなかなか笑顔を見せてくれなかった子供たちが、この頃ではいい顔でしょう?次の来院時にさしあげます。「撮ってもらった写真を孫が大事にしています」「パパより上手」(笑)と、ご家族も喜んでおられます。
 ハッスルノートに月一枚、年間12枚貼っていきます、小さなお子さんは顔が変わっていくのがわかります。これは治療ではなくサービスです。サービスは楽しくなくてはいけません。

 河野先生は、取材や会話の途中でも「あっ、ひらめいた!」とおっしゃる。考えたアイデアを楽しみながら実行されるフットワークの軽さに脱帽。

ハッスル隊の
歯磨きシーン。



義歯食
ねぎらいと福俵
 院内新聞である『ハナ通信』、これがまた面白い。歯科にありがちな、ワンパターンの結論とは無縁で、車内で読みながら、笑いをこらえるのに苦労しました。
 冒頭の、「美しき緑走れり夏料理」「梅雨深し煮返すものに生姜の香」「たくあんの波利と音して梅ひらく」引用の一句に、食の味わいがじんわりと、ぴりっと広がってゆく。
 居酒屋風の「五円屋」さんで、義歯食のフルコースをいただく。ネーミングが奮っている、「海千山千」「ねぎらい」「ほね作」「大入り満点」「福俵」。マスターの松井一さんと河野先生のアイデアの二人三脚で出来たメニューを紹介すると

ねぎらい・・・骨ごとミンチした地鶏を太めの自ネギの芯を抜いて詰め、炭火焼き

福俵・・・厚揚げの中に山芋、納豆、チリメンを詰めて炭火で焼いたこぶりの俵

ほね作・・・豚の軟骨を、味噌ザラメ、醤油、大根の輪切りなどと2時間以上煮る

「義歯食」という言葉から連想する、刻み食、とろみ食とは全然違っていて、噛みごたえも歯ざわりもある。
    義歯度のポイントは?

河野 栄養や低脂肪はもちろん、歯ざわりも。歯ざわりは、どこで感じると思いますか?

 ウ〜ン、歯にあたる感触…でしょうか

河野 触覚と耳、聴覚ですよ。バリッバリッ、サクサク、耳でも楽しんでいます。
 口腔粘膜が義歯床で覆われて味覚が減ると言われていますが、舌で味わっているのに、舌は覆っていません、実はそこの所はよくわかっていないのです、義歯と味覚の研究論文はまだ見たことがありせん。
 味がわかる、わからない、と言うのは、痛みや違和感と深く関係しており、痛みがあると、痛みの情報が三叉神経を先に占めてしまい、味わう情報が流れません。だから「何を食べても砂を噛むような」その通りなのです。ティッシュコンディショナーで痛みや違和感をとってあげると、味の情報が流れ出します。

 そこまでは歯科治療…

河野 私は「おいしい」までを自分の治療と考えています。口腔内の機能が低下しているのなら、味覚、触覚、聴覚、視覚、嗅覚、そこを強調して、おいしく食べよう。

 あっ、わかってきました。例えば、視力を失うと、それを補うように聴覚や指の感覚が鋭くなる…あれですね。

河野 そうです。マスターによると、お客と話をしながら、腹具合や気分や好みを察して、そのときに丁度いい料理を次々に出していくことは、プロの料理人がやっていること。だから義歯食も特別なことではありません。

後藤 栄養士さんの中には、義歯=食べられない=軟らかい食事を出されます。しかし、刻み食を食べても、おいしさを感じないそうです。ご本人はそれまで普通のものを食べていたので、さらに年をとったような気になるそうです。

 義歯食は「おいしい」にこだわって・・・

河野 患者さんとの食事会では、私達と同じものを何でも食べていらっしゃいます。
 食べられる、食べられないよりも、あなたのことを考えてこの食事を作りました、義歯装着者への思いやりだと考えています。
 メニューに義歯食とあれば、ペリオの人だって、これ食べてみようかなと思うでしょう。外で食べることがもっと楽しみになりますよね。

後藤 先生は、私達にもおいしく食べることに、日頃からこだわって欲しいと言っています。

河野 私達は口の専門家な訳ですから、一緒に食べながら、リハビリやトレーニングをアドバイスしたり、料理や食べ方にまで口をはさむ必要があるだろうと考えています。

 「おいしい」にこだわろう!その応援をしようということですね。
 本日は、本当にこちそうさまでした(笑)。