◆笑進日記 No.022
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「サプリメール葉月」
サプリメールとは
http://www.connote.co.jp/hana/back61.htm
「サッちゃん」2番 阪田寛夫
サッちゃんはね
バナナがだいすき ほんとだよ
だけど ちっちゃいから
バナナをはんぶんしか たべられないの
かわいそうね サッちゃん
*バナナダイエットの先駆者はサッちゃん!
080804
「ははあん」杉本深由起
大きな声で
思いっきり笑ったら
また一段と
世の中 あかるくみえてきた
目に映るものが
そのまま まっすぐに
とびこんでくる
ははあん
キュッキュッ クックックッと
窓ガラスが
きれいに磨かれてゆくときの音だったんだな
さっきたてた笑い声は
080806
「ぼくはびっくりした」秋川ゆみ
おとなは/こんなことに
びっくりするなんて/びっくりした
おとなは/こんなことにも
びっくりしないなんて/びっくりした
おとなは ぼくと
ずいぶんちがうんだなあ
080808
「支えられて」星野富弘
支えられているから
立っていられる
支えられているから
崖に身体を乗り出せる
支えられているから
見えない明日に夢が見られる
綱渡りのような私の人生
あなたに支えられて生きている
080811
「心太=ところてん」
暦では秋ですが、まだ夏真っ盛り。この時期、地元の鵜戸地区で作られる心太が楽し
み、そのままが一番美味しいうどの心太!ネットで調べると「こころ=凝る=冷えて
固まる」「ふと=太い海藻」らしいとのこと。
080813
「盂蘭盆会=うらぼんえ」
日南も旧歴のお盆です。勝手にうら=裏=旧と理解していました。盂蘭・盆ともに器
の意味で江戸時代の書物には器(盂蘭盆)に供物を盛って僧に施す日と書いてあるそ
うです。盂蘭盆で一語で、その略で盆のようです。
080815
「秋の七草」
春の七草「せりなずなごぎょうはこべらほとけのざすずなすずすろ」はすぐに出るの
ですが、秋はなかなか。万葉集山上憶良の歌「萩の花尾花葛花なでしこが花をみなえ
しまた藤袴朝顔が花」これぞ秋の七草。
080818
「桐壺」源氏物語 紫式部
いづれの御時(おほんとき)にか。女御(にょうご)・更衣(かうい)、あまたさぶ
らひ給ひけるなかに、いと、やんごとなき際(きは)にはあらぬが、すぐれて時めき
給ふ、ありけり。
「名作の書き出しを諳んじる」より
080820
「平家物語」作者未詳
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰
の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、唯(ただ)春の夜の夢のご
とし。たけき者も遂にはほろびぬ。偏(ひとへ)に風の前の塵(ちり)に同じ。
「名作の書き出しを諳んじる」より
080822
「方丈記」鴨長明
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、
かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
「名作の書き出しを諳んじる」より
080825
「枕草子」清少納言
秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすのねどこへ行くとて、
みつよつ、ふたつみつなどととびいそぐさへあはれなり。まいて雁(かり)などのつ
らねたるが、いとちひさくみゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音むしのねなど、
はたいふべきにあらず。
「名作の書き出しを諳んじる」より
080828
「おくのほそ道」松尾芭蕉
月日は百代の過客にして、行(ゆき)かう年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬
の口とらへて老いをむかふるものは、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多
く旅に死せるあり。
「名作の書き出しを諳んじる」より
笑進日記023
フォローアップ報告書 080909 三期生ふ組 河野秀樹
去る7月の第五回笑い療法士発表会の講演でお会いした、徳永先生の本を五冊読みま
した。自己研修ですがマイルは5。
「野の花診療所まえ」徳永進著 講談社
この本と出会う前に、著者の方のお話を聞きました。京都大学出身のお医者さんです。
笑い療法士の五期生の合格発表のイベントの中での講演でした。笑いあり、涙あり、
オチあり、エッチあり、ハーモニカあり、何でもありのアッと言う間の講演でした。
会場で早速この本をもとめ、サインも頂きました。
この本はのっけから「オルガスムスとオレがススム」の話です。読み進むうちに、目
の前に「野の花診療所」のベッドとそのベッドの上の患者さんとのやりとりがはっき
りと目に浮かびます。いろいろな人々が登場し、なくなってゆきます。読みながらつ
くづく思いました。人が生まれることは感動的なことですが、なくなるということは
もっと何倍も感動させられるということです。
生まれた時には、喜びと神秘さとこれからの可能性など、言わば未来への感動です。
かたや、ひとがなくなるということは、過去への感動でありながら、まわりの人々の
中で、それはひとつの区切りであったとしても、決して過去形ではなく、継続してい
るということが文章から伝わってきます。過去、現在、未来の感動なのです。
徳永先生の本を何冊か読むうちに、笑い療法士になったから「こうする」のでもなけ
れば、また笑い療法士だから「どうする」のでもないような気がしてきました。つま
り、一番重要なことはその人の芯・コアであり、理想はその人が素(す)の時も笑い
療法士であることができるか。おそらく先生は、ひとの死、死の苦しみ、悲しみなど
に数多く接するうちに、この本のような医者ではなくひとになっていかれたような気
がします。もちろん、セミナも大切です(徳永先生に出会えたのもセミナです)が、
やはり多くの生のひとに接することが笑進(笑)ならぬ精進であるような気がします。
徳永先生の文章のなかでは、目の前に迫る「死」があたかも長編映画のエンディング
のような「the End」へと流れてゆきます。ぽつんと思いました。「ひょっとすると、
死ぬことって怖くないかも?」
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