ものづくり名手名言 歯科技工 第20号 平成14年1月1日発行

第20回 独楽も心棒、人も辛抱
                  Interviewee 山本 貞右衛門(佐世保独楽本舗)





山本 貞右衛門 やまもと さだえもん
本名:山本敏隆。1958年佐世保市生まれ。1976年佐世保商業高校卒業後、親和銀行入行。1984年から独楽製造業に従事。1987年三代目山本貞右衛門を襲名。
山本さんの手→


〒857-0879 長崎県佐世保市島地町11-45


まずはじめに、「佐世保独楽」のおおまかな歴史を教えてください。

 文献がほとんど残っていないため、はっきりしないところがありますが、始まりは江戸中期から後期にかけてでしょうか。「らっきょう型」は台湾・インドの流れをくみ、中国、高麗を経てきたものでしょう。いまだに台湾には、佐世保独楽そっくりの独楽があります。非常に大きくて、大人がひと抱えするくらいの大きなものです。
 「独楽」という字をあてますが、高麗が訛って「こま」になったともいわれています。「独り楽しむ」と書きますけど、佐世保独楽の場合は「けんか独楽」ですから、必ず二人以上で漕ぎます。

独楽を「漕ぐ」のですか?

 佐世保では、廻すことを「漕ぐ」といいます。この「漕ぐ」以外にも「息長勝問勝競べよいよいのよい(廻し始めの掛け声)」や、「対」「生」「天下一」「どんばん」などの遊び言葉が数多く残っていることも特徴でしょう。

:同時に独楽が止まること。対になった者で、再び早く廻したほうが勝ち。:独楽の回転が止まった状態。天下一:独楽漕ぎの勝負で一番長く廻している者のこと。どんばん:天下一とは逆に一番早く独楽が止まった者。>


初めから独楽作り専業だったのですか?

 もとは木の材料屋であり、「轆轤屋」でもありました。「轆轤屋」は、轆轤を使って作るものであれば、何でも作っていました。佐世保のこのあたりには炭坑がありましたから、ツルハシの柄や、トロッコの車輪など、丸いものなら何でも作っていて、鼈甲のネックレスの木玉なんかも作っていました。そして、季節になると、独楽も作っていたわけです。
 その昔、独楽職人は冬仕事と夏仕事の2つの仕事を持っていました。独楽作りは冬仕事で、夏は全く別の仕事に就きます。多くは氷菓子屋、アイスクリーム屋ですね。他には花火作りという職人もいました。

佐世保の独楽作りの特徴を挙げてください。

 独楽の材料には、マテバシイという木を使います。この木は昔、土間から上がるところの踏み込み板や、道具の柄木に使われていたように、大変丈夫な木材です。佐世保独楽は「けんか独楽」ですから、硬すぎると割れやすく、また軟らかくてもだめです。玩具というものは、本来あまり利用価値のない材料を使って作っていたのですが、佐世保独楽は特別ですね。
 以前は佐世保にも30軒くらいの独楽屋さんがありましたが、ほとんどが代替わりの時に辞めてしまいました。独楽の需要が減ったからなのですが、少子化の影響が一番大きいでしょう。遊びのスタイルも変わって、子供たちが外で大勢で遊ばなくなったことも影響してますね。私の小さい頃は、それこそ幼稚園児くらいから中学生、女の子も一緒になって「独楽漕ぎしゅうか(独楽遊びしよう)」と声を掛けては集まっていましたよ。

この道に入られたきっかけは?

 高校卒業後、佐世保を離れる気はありませんでした。当時、地元で一番だろうと思って就職したのが銀行です。その頃は終身雇用が当然で、学校を出た者がアルバイトなんかしていたら、白い眼で見られていましたからね。
 もちろん、独楽を漕いだことはありました。佐世保で育った人で漕いだことのない人はいないでしょう。しかし、自分が独楽を作ろうとは夢にも思いませんでしたね。
 高校生の時の夏休みに、たまたま友人とバスが一緒で、「どこ行くとや」と私が聞くと、友人が答えたのが「独楽作りのバイト」。「へえー、今頃から正月用の独楽ば作りよっとや」と、驚いたことを覚えています。偶然にも、その独楽屋さんの三人娘の長女と結婚したのが私です(笑)。それがきっかけですね。

銀行員から独楽作りへ。スムーズにいきましたか?

 まさか。始めの1年くらいは、銀行への未練がありましたね。銀行は自分で選んだ仕事でしたし、はっきりいって辞めたくはなかったのですよ。一大決心が要りました。銀行は集団での仕事ですけど、独楽作りは、始めから終わりまで一人仕事でしょう。これは怖いですよ。
 ある時二代目(親父)が、鼈甲の首飾り用の木玉を挽いて(注;作ること)いたんです。鼈甲の玉は全部が鼈甲でできているわけではなく、パチンコ玉くらいの木の玉に鼈甲を張り付けてありますが、完全なまん丸ではなく、少し楕円のような玉です。その木玉挽きを見ていて、「寸法は?」と聞いたところ、「11.5の10.5やろ」との答えでした。物差しなど何も当てずに挽いているわけですから、いくら親父でも点五(.5)はないだろうと思ってノギスで計ったところ、ぴったり11.5の10.5でした。その時「やっぱ職人は凄かよなあ」と思いましたね。いまだに、私はそこまで達していませんけどね。
 この仕事に対しては、正直、好きということはありませんでしたが、今になって思えば、自分のどこかに向いているものが、何かあったんだろうと思いますね。

技は二代目に習ったのですか?

 そうです。はじめに一通りのことは教えてくれました。しかし、その後はこちらから聞かないと教えてくれませんでした。何を聞いても教えてくれましたが、聞かなければ何ひとつ教えてくれませんでした。当時は「何で教えてくれんのやろか」と思いましたけど、何が自分にはできないことなのかがわかったから聞くのであって、たとえはなっから教えられたところで、それらは理解できないでしょうね。
 その親父が61歳の年に急死しました。その時、私が28歳です。これには参りました。教えてもらいながらも、親父がいるということで、甘えがありましたからね。
 自分たちの道具は全部自分で作るのですが、それが一番困りました。独楽作りにとって、この道具作りが、いうならば最後のステップですよ。独楽には「剣」と呼ばれる、独楽先につける鉄製の芯の部分があります。この剣や独楽作りの道具を作るために、年に数回、鍛冶仕事をするんです。親父からは、その年に数回しかない鍛冶仕事の時には、よく見ておくよう言われたものでしたが、焼き入れのタイミングなどは、そんなもの見ていてもわかりませんよ。本当にこの道具作りに関しては、途方に暮れました。

解決の糸口は見つかったのですか?

 そんな時に救ってくれたのが、火箸作りの明珍さん(7号参照)や、木工の有岡さんたち、もの作りの大先輩方です。私にとっては親父亡き後は、先輩というよりもまさに親父のような存在です。
 百貨店の企画する「技の伝統展」などで、全国からみんな集まっては飲むんです、毎晩のように(笑)。他人が見れば酒を飲んでいるだけのように見えますけど、作るもの、できあがるものは違っていても、工程や技には似通ったところがありますから、いろいろと参考になる話が聞けました。生前、親父が一緒に伝統展に出ていたこともあったからか、普通なら絶対人に教えないだろうということまで教えてもらいました。この人たちがいなかったら、この仕事は辞めていたでしょうね、本当に。

その後はどうでしたか?

 はじめは、そのような伝統展に出ていっても、人の仕事のあら探しばっかりしていました。自分は職人というプライドが先走って、自分の未熟さは棚に上げて、いうならば攻撃的でしたね。しかし、自分である程度の形が作れるようになると、攻撃的だったのが、その人の仕事に対して今度は感心できるようになるんです。次は自分の仕事に色気が出てきます。そして、その色気がなくなってくると、自分の仕事が今まで以上によく見えるようになるんです。
 また、年に数回参加している伝統展が、今では自分自身や仕事についてゆっくり考える貴重な時間になっています。別の角度、観点、次元で、自分の仕事を見ることができますし、ちょっとした話のなかにも凄いヒントがあったり、答えがズバリ出てきたりします。作るものが違いますから異業種のようですけど、ものづくりということでは一緒なんだとつくづく思います。
 明珍さんたちの話には、教えが入っています。自分がだらけてくると「こがんしよらすばい、あがんしよらすばい」とお話を思い出しては、自分に言い聞かせるのです。仕事場には明珍さんの火箸風鈴を掛けています。「最近、真になって仕事しよらんけん、風鈴が鳴らんなあ」って(笑)。
 新作展にも出品していますが、「独楽は廻るもの」から抜けきれないですね。今作っているほとんどの独楽は、もちろん廻せば廻りますけど、はじめから工芸品の独楽として作ったものです。玩具として、けんか独楽として作っているのは、数パーセントくらいのものでしょうか。いろいろなパーツとしての独楽、携帯電話のストラップの独楽やピアスの独楽も作っていますが、基本的に廻せるようには作っています。

四代目はどうされるのですか?

 今後、独楽が再び玩具として見直されることはないでしょうね。うちの場合、二代目に先見の明があったのでしょう。早くから、民芸品としての独楽の販路を確保していましたので、何とかここまでやってこられました。私は辞めませんけど、子どもに是が非でも継がせようという気もありません。もし、子どもたちが継ぎたいと言ったら、継いで欲しいのはもちろんですけど、独楽専業というのは無理でしょう。ですから、子どもたちが継ぐことのできるような態勢を、私の代で整えてあげたいですね。
 二代目が早くに亡くなったので、私としては親父の周りの人への恩返しの意味でも、辞めるわけにはいきません。きちんと残すものは残して、チャンスがあれば次の人に継いでいくことは考えています。何にしてもそうでしょうけど、全くなくなってしまうと再び始めることはかなり難しいでしょう。

今後の展開は?

 二代目は、「1日に何個作るかが職人仕事で、手間暇掛けて作るのは作家の仕事」と言っていました。手間暇掛けて作った作品もいくつか残ってはいますが、これから手間暇掛けて作っていこうとした矢先にに亡くなりました。私もいつか、そのような独楽作りをしたいと思っています。
 また親父は、独楽作りについて一冊の本に纏めようと、かなりの資料を集めていました。その資料はまだ整理もされていませんが、私がきちんと整理して、纏めたいですね。
 親父がよく口にしていた言葉に、

   怠れば転ぶと
   弟子へ師の諭し
   独楽も心棒
   人も辛抱


 というのがあります。読んだ通りの意味でしょうけど、ここでいう「辛抱」とは、ただ我慢する辛抱ということではなく、「前向きな辛抱」「努力するための辛抱」の意味のようです。私にとっての辛抱とは、「今の独楽作りを守ること」ですね。守るためには進まないといけないでしょう。進むといっても、まだ先が見えてきませんけどね。むしろ、わからないからやるしかないというのが、本音ですよ。


 この取材をしていると、作っていらっしゃる方と、作られているモノが、非常に似通っていることに気づき、しばしば驚くことがあります。山本さんもまさしくそのとおりでした。お話をお聞きしていると、「生長勝問勝競べ」のかけ声どおり、一年でも長く、一個でも多くの独楽を作り、廻し続けたいという思いが伝わってきました。
 「独楽は廻るもの」から抜けきれないとおっしゃる山本さん。いつしか、ご自身も独楽になってしまわれたのかもしれません。佐世保の地で、静かにしっかりと廻り続けてほしいと、切に思いました。



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