ものづくり名手名言 歯科技工 第7号 平成12年7月1日発行

第7回 やってあたりまえ
                  Interviewee 明珍 宗理さん



 かれこれ6、7年前の初夏のこと。ふと雑誌を見ていたら「明珍の火箸風鈴」の記事に目が止まりました。シンセサイザーの巨匠、冨田 勲氏が、「目の前で鳴っているのに、どこか遠くから聞こえる」と評し、かのスティービー・ワンダーにもプレゼントされたとのこと。早速、取り寄せてみたところ、その音たるや・・・・・。

明珍 宗理 みょうちん むねみち
(明珍火箸製作者)1942年姫路市生まれ。1960年琴ヶ丘高校卒業後、51代明珍宗之氏に師事。平成5年52代明珍宗理を襲名、現在に至る。



明珍さんの手→


明珍本舗

〒670-0871
兵庫県姫路市伊伝居上ノ町112番地


 まずはいただいた資料を元に、明珍家の歴史を少し紹介します。
 “明珍”の名の由来は、平安の頃、京都九条で甲冑師をしていた宗介紀ノ太郎が、近衛天皇に鎧、轡を献上したところ「触れあう音が朗々とし、明白にして、たぐいまれな珍器である」とお気に召され、明珍の姓を賜ったとのことである。
 江戸時代になると、明珍宗信が江戸に居を構え、17世紀半ば以降、系図や家伝書を整備するなどして自家の宣伝に努めた。また、鍛造技術を顕示した作品を残すとともに、古甲冑を自家先祖製作とする極書(きわめがき;鑑定書)を発行している。特に、明珍家の特徴としては家元制度を整えたことであり、江戸時代の明珍本家には諸国から門人が集まった。その後、徳川譜代の大名で姫路城主となった酒井公に従って姫路に移り住み、代々が歴々の藩主に仕えた藩お抱えの甲冑師で、千利休の注文によって茶室用の火箸を作ったことが語り継がれている。

前置きが少々長くなりましたが、52代目として当然のことのように、家業を継がれたのですか?
 とんでもありません、そりゃあもう大変でしたわ(笑)。江戸の終わりまでは酒井の殿様から禄貰うて仕事してたわけです。そやから、贅沢はできませんけど、衣食住には困らしません。そら、ええ仕事できますわ。それが、明治になって禄がのうなりました。作るもんも甲冑から、それまでは副業やった火箸が専業になってきたんですわ。大正時代ですか? 志賀直哉の「暗夜行路」は。あの本のなかにも「明珍火箸」がでてきます。まあ当時は必ず、家に一つは火箸があったもんです。加えて御 先祖さんから受け継いできたうち独特の鍛え方によって、ええ音がする。そういうわけで、そこそこ需要はあったんです。
 昭和になって、太平洋戦争が本格化した頃に私は生まれました。そりゃもう深刻な鉄不足で、軍が来て鍛冶道具まで供出させられて、親父は少しばかりの財産を切り売りしながら食いつないどったんですわ。
 終戦後の昭和27年から、地元の名士のかたのお口添えもあって仕事を再開するんですけど、どうにか軌道に乗り始めたと思うたら、今度は昭和35年頃からの高度経済成長による燃料革命ですわ。それまでは、夏場はともかく冬場はまだ注文がありよりました。それが、石油ストーブがでて、ガスコンロに電気コンロと・・・。もうお手上げですわ、注文なんてありゃしません。
 当時、一番上の兄が親父とやっとったんですけど、そんな状況やさかい、もひとつ身がはいらん。他の兄たち(次男,三男)は、すでに別の仕事に就いていました。さらに私らの生まれた家まで人手に渡る。そんなときに高校卒業。食っていけるめどもありませんけど、今まで何十代と続いた技を「絶やすわけいかんと違うか」という使命感だけで、「何とかやってみよう」「何とかやりたい」という気持ちだけで、家業に就きました。三度の飯食うにも借金せなあかんというときの出発でしたわ。

では、そのあとに「火箸風鈴」を考案されたのですか?
 そうです。今だに風鈴を考えつかなんだらと思うと、ゾーッとしますわ。さっきも言いましたように、夏場はほとんど注文がありません。代々伝わってきた鍛え方によって、火箸が触れ合うときにええ音がする。ほな、この音を何とか使えんやろかと思うたわけです。そりゃあ、もう生きんがため、この技を伝えんがため、それだけのことですわ。何もきれいごとありゃしません。
 いろいろ考えて、あれやこれや作ってみましたが、どうにか形になったのが昭和40年頃です。不安いっぱい抱えて店に持っていきよりましたところ、2、3日して店から「売れた。あれは売れるで、はよ作れ」との返事。ということで、少しずつ世間様に知れるようになってきたわけです。

技の継承については?
 明珍家の古文書を見ますと、その昔は家元制度をきちんと作っとったみたいですな。鎧、兜いうもんは、鉄だけやのうて、布や紐、皮など、いろいろ作る人が必要ですさかい、それらの人をまとめる形で、家元制度を確立しておったと聞いとります。明治になって甲冑の注文がのうなってからは、細々と父から子へ伝えるだけですわ。そやから、今は弟子取れしません。私も親父から習ったんですけど、結局この仕事、打たなしょうがない。やらなしょうがないですわ。
 三男が手伝うようになって三年目になりましたけど「おやじ、形はできたけど、音は出えへん」と、ぼやくんですわ。「なに言うとんのや。これで音出るようやったら、おまえ天才や」と言います。打って打って打つだけ、自分で会得せなしょうがない。うちの場合、立派な形ができてもあきまへんのや。形がなんぼよくても、音せえへんかったら、ほかさなしょうがない、音がついてこないかんのですわ。
 もちろん、私の親父もアドバイスしてくれました。たまに私が打つのを横で見ていて、ちょっと一言ゆうてくれました。自分で打ってみて、やってみて、初めてその一言が理解できますのや。

玉鋼(たまはがね)についてお聞かせ下さい。
 戦後この仕事を再開してからは、鉄鉱石とコークスを原料に大規模な製鉄所で作る「SS鋼」、いわば西洋鉄を使うとります。その昔、日本には砂鉄から作る「和鉄」がありました。今では、島根の出雲地方で、日本刀の材料としてしか生産されていませんけど、いつしか和鉄で作ってみたい気はあったんです。せやけど、日本刀以外への玉鋼の使用は前例がないといって、なかなか使わせてもらえへん。手紙書いたり、日本刀剣保存協会の人に話して、やっと使用を許可してもらいました。砂鉄10t、木炭13tを原料に、大人12人が三昼夜72時間かかりっきりで、やっと3tの玉鋼ができます。お陰様で今では次男が、玉鋼の鍛錬法を学ぶためにも、出雲地方の刀匠の下で修行中ですわ。やはり玉鋼を使うと音が違います。今までよりもさらに澄んでいて、しかも音に「うねり」が新たに加わりよりました。

その音については?本来、副産物のように思えるのですが・・・。
 確かに、鉄に音は必要ないかもしれません。けれども、明珍の姓をいただいたのもこの音のお陰ですし、何十代と続いてきたのもきっとこの音あってのことでしょう。
 近くの大学で調べてもらったところ、鉄そのものやなくて、鉄の鍛え方にこの音をだす秘訣がある、いうことらしいですわ。その後、音色と余韻が優れていて、しかも音源として安定しているということで、ソニーのマイクロフォンのサウンドチェックに使われるようにもなりました。
 さらに、冨田 勲先生との出会いによって、この音がクローズアップされるようになり、平成9年からは、NHK「街道をゆく」のテーマ音楽に使うていただきました。また、その年の冬には「伝統工芸を守り,暮らしと心に潤いを与えてくれる音」として「音の匠」(日本オーディオ協会主催)にも選定されました。デジタル技術の発達によって、この音のほぼ完全な再現が可能になったらしく、冨田先生の昨年のロンドン公演「源氏物語交響絵巻」のCD化に際し、この火箸の音を加えたいとのことで、この2月に火箸の音色の録音がありました。何かしら、「源氏物語交響絵巻」のなかの「宇治十帖」で、浮舟が雪の降りしきる宇治川に身投げするシーンに合うらしいですわ。

今後の夢をお聞かせ下さい。
 自分のことを振り返ると、今だに安心できません。私の代は「火箸風鈴」で何とかやれるかもしれませんが、息子の代になったら、さらにその先は・・・。そう考えると不安でしかたがありません。何十代と続いた御先祖さんがおられるいうことは、私は「やってあたりまえ」なんです。あかんかったら「おまえ何しとんのや」言われるだけで、「やってあたりまえ」なんです。そりゃあ、連綿と伝える、続けるいうのは、しんどいことです。私の場合、大変なときにこの仕事に就きましたけど、今思えばよかった思うとります。ハングリーの気持ちがなかったらやめとったでしょうな。ハングリーの気持ちなくしたら終わりですわ。
 まあ、お陰様で、息子たちが後を継いでくれそうです。飯食えなんだら、なんぼええ仕事してても、継いでくれいわれしませんやろ。玉鋼もさらに試行錯誤せえへんといかんでしょうし、やはり、いつしか御先祖さんの作っとった鎧兜を作ってみたいですわ。そして私の代では無理かもしれませんけど、私が今まで集めた古鉄なども展示できる「明珍ミュージアム」を建てるのが夢ですのや。


 「この仕事、槌を握って間もなく40年、鉄に苦しめられ、鉄に楽しませてもらいましたわ」とお話されていました。お話を伺っていて、まさしく鉄のような生き方をしてこられたのだなと思いました。鉄はさまざまな形に姿を変えます。たとえ形は変わっても、鉄は鉄。しなやかさ、強さ、時代に翻弄されるなどの脆さ、加えてこの音。時代に合わせて自由自在に形を変化させながらも、普遍のものをしっかりとなかに秘めている、継承してきている。  この「明珍火箸風鈴」の音はまさしく諸行無常の響き、不立文字の音。音を聞くと、思わず手を合わせて拝んでしまいます。この音色の何ともいえない余韻の底には、脈々と続いてきた明珍家の魂、すなわち伝統が聞こえるような気がしました。



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