ものづくり名手名言 歯科技工 第16号 平成13年7月1日発行

第16回 人生是今日が始まり(前)
                  Interviewee 山本 一義(プロ野球評論家)





山本 一義 やまもとかずよし
1938年広島県生まれ。県立広島商業高校、法政大学卒。1961年広島カープ入団。1975年現役引退後、広島カープ、近鉄バッファローズ、南海ホークスでバッティングコーチ、ロッテオリオンズ監督などを歴任。解説、評論活動を経て、チーフコーチとしてカープに復帰。現在日刊スポーツ野球評論家。

〒730-0051 広島市中区大手町3丁目3-27-808

山本さんの手→




この道に入ったきっかけは?

 新聞記者をしていた父の考えで、戦時中、広島の田舎に疎開していました。当時、子供たちの遊びといえば、野球しかありませんでしたよ。田圃に大きな三角を書いての三角野球です。軟式のテニスボールに竹のバット、グラブなしの素手です。バットもなく手で打つこともありました。みんなハナを垂らして、冬でも半ズボン。今思うと、あの頃の子供たちは逞しかったですね。
 小学校の4、5年生の頃でしょうか、「赤バットの川上、青バットの大下」が登場したのは。ラジオの放送しかないにもかかわらず、竹のバットを赤に塗っては川上選手の真似をしたり、青に塗っては大下選手を真似てみたり、次第次第に憧れを抱くようにはなりました。それでも、5年生の時の作文には「総理大臣になりたい」と書いていましたね。終戦時の吉田茂がマッカーサー相手に全く物怖じしない態度を見て感動したのを覚えています。
 きちんとした野球をやり始めたのは、中学校に入ってからです。当時まだ、セ・リーグ、パ・リーグに別れる前で、プロ野球のことを「職業野球」と呼んでいました。大企業に入って社会人野球をすることが夢の時代で、プロ野球なんて夢のまた夢でした。

そのあと、高校、大学と野球を続けられたのですか?

 もちろんやりました。県立高校の商学科に入学したのですが、1年生の二学期から、高校野球の古豪・広島商業高校の復活第一期生になりました。ですから、1年生が最上級生、先輩のいない1年生だけの野球部です。結局、1年から3年までキャプテンを務めました。1年生の時は正式な部として認められず、公式戦には出られませんでしたが、先輩がいないわけですから、殴られることもなく(笑)、グランドを整備して、野球ができる態勢を整えていましたね。ただ、グランドだけではなく、広商野球部の伝統をも教えられた時期でもありました。
 2年生になって公式戦に出られるようになり、県大会で準優勝した時のことです。多くのOBの方がたが「よくやった」と慰めてくださるなかで、ある方が「広商は負けるわけにはいかない」とおっしゃいました。この時、キャプテンを務めていた私は、伝統の中に脈々と流れる広商の格というものを守っていかなければならないことを知らされました。負けても、失敗しても、勝つという結果が出るまでやり通すのが広商の伝統であると、その時、心に刻み込まれました。
 当時、夏の甲子園には一県一校ではなく西中国代表としての出場でした。県予選を通過して、地区予選で負けたのですが、県予選では14打席連続敬遠されました。ですから、高校卒業の時には広島随一の強打者ということになっており、ほとんどの球団と、東大以外の東京6大学からお誘いを受けました。進路を決めるにあたっては、南海の鶴岡さんの影響がかなりあったと思います。鶴岡さんは広商の先輩であり、鶴岡さんの野球に対する姿勢、また人柄を目標としていましたので、少しでも見習いたいという気持ちで、鶴岡さんの出身大学である法政大学を選びました。私にとっては夢どおりのスタートとなり、1年生の春から3番を打たせていただきました。

その頃には、もうプロ野球は頭の中にあったのですか? また、迷いはなかったのですか?

 迷いはなく、プロに進むつもりでした。というのも、中学、高校、部活での野球と、何においても選ぶときはすべて「自分で決めろ、相談するな」が父親のやり方でした。「つまずいた時に参考意見として聞け」とは言っていました。ですから、すべて自分自身で決断していましたが、「一旦決めたからには途中であきらめることは許さん、最後まで全うしろ」というのが父親のルールでした。ですから、決断するには勇気がいりましたね。
 法政大学に決めた翌朝のことです。枕元に新品のグラブが置いてあって、「おめでとう」の手紙が添えてありました。両親からのプレゼントでした。左利きでしたから、わざわざアメリカから取り寄せてくれたんです。感動しましたね、あれだけ厳しいこと言っておいて、一旦決まったからには「おめでとう」ですから。あの頃の親は、本気で子供のことを思っていましたね。子供にとっては、感動することに成長の足がかりがあると言えるでしょう。
 こんなこともありました。プロに入って1年目の頃、取材が自宅で夕方6時からある。練習が終わった後にたまたま高校の時の同級生と出会って、帰宅が夜の7時になりました。取材の約束をすっかり忘れて、1時間遅れて帰宅したのです。母親が玄関で待っていて、戸を開けるなり、頬を5発叩かれました。カープの新人スターとしてではなく、ただ単に、約束を破ったわが子として扱っていました。今なお、あの時の頬の痛みは覚えています。

広島カープへは迷わず進まれたのですか?

 ドラフト制度はまだない頃です。当時は、カープの運営には、広島の7つくらいの地元の企業が集まった「二葉会」があたっていました。二葉会メンバーの社長が交代でカープの社長も務めていて、私が大学を卒業する頃、たまたま父の勤める中国新聞の社長さんがカープの社長でもありました。当然のごとく、新聞社の社長さんからは父に要請があったようですが、父は「子供の人生だから子供に決めさせてほしい」と断っていたそうです。大学の休みに帰省した際には「鶴岡さんのいる南海に進みたい」と両親には話していました。その時、父はフッと寂しそうな表情を見せましたが、反対はしませんでした。
 大学4年生のある日、野球部のマネージャーから「通産省から電話です」と呼び出され、電話に出てみると通産省に来てほしいとのこと。出向くと、通産大臣であった池田勇人さんが、待っていらっしゃいました。当時、この方は破竹の勢いの政治家で、広島出身ということもあって、カープ後援会の名誉会長でもありました。「ふるさとを捨てるな、帰ってきてほしい。僕が首相になるか、君がカープを強くするか競争しようではないか」と、こぶしで机を叩きながらの熱弁でした。迷いましたね。日頃、広島大好き・ふるさと大好きと公言していましたから、「ふるさとを捨てるな」の言葉が、日を追うごとに頭の中で響きました。鶴岡さんとは、口約束ですけど、南海にお世話になりたいとお願いしていましたから、今さら広島へ帰りますとも言えない。実際、99%南海に行く気でいました。しかし、小・中・高校の同級生、先輩、そして恩師と、広島でお世話になった人は数えきれない。もちろん親もそうです。日増しに、この人々への恩返しをするのは、今しかないと思うようになったんです。
 悩んだ結果、広島へ帰ろうと決心し、殴られる覚悟で大阪の鶴岡さんのもとを訪れました。今までの事情や、池田さんの話をして、「ふるさとを捨てるな」の言葉が耳から離れない、どうか広島へ帰してほしいと頭を下げました。しばらくして鶴岡さんの口から出た言葉は「胸張って広島へ帰れ。広島へ帰って、活躍せい。何か手伝うことがあれば、何でもしてやるから、頑張ってみろ」と……。なんと、器の大きな指導者だろう、この青年にとって、何が一番よい道なのかを、考えてくださる。救われましたね。選手の幸せの一つに「よい指導者との出会い」があります。

広島カープに入られてからは、けがやスランプなどは?

 主力選手、打順でいえば3、4、5番の選手が休むと、チームの士気が低下します。ですから、1カ月半ほど、肝炎の疑いで休んだだけでしょうか。プロ選手にとって、自己管理ができるか否かは命です。暴飲暴食を慎み、次の日の試合に全力投球するためには、その日の疲れをいかに解消するかです。王、長嶋のような大選手ほど、自己管理をしっかりしていましたね。遠征先で専門のトレーナーをお願いして、試合後すぐに体を揉みほぐしてもらうんです。私も見習って、東京、名古屋、大阪、広島に4人の先生をお願いしていました。
 オフの時には、暇さえあれば人に会っていました。野球関係者のみならず、いろいろな道で成功した人に会って、お話を聞かせていただきました。生き方、仕事に対する考え方などの知恵を授かるんです。違う分野の人とお会いすると、いろいろな知恵が次から次と出てくる。このような投資も必要だと強く感じましたね。現役の時には秀でたい一心で、そうしていました。

現役引退というのは、見えてくるものなのですか?

 見えてきます。私は最初から、4番が、クリーンナップが務まらんようになったら引退しようと決めていました。言うなれば、かっこいい引退を考えていましたから(笑)。 その時がプロ15年目、37歳の時にきたわけです。皮肉なもので、その時が一番上手になっていましたね。練習量によって体力は何とかなる。知恵や技もたくさん持っている。そんな時に当時の監督から「若手でいく」と言われました。これで終わりです。しかし、これはある意味で、社会の流れですから恨んではいけません。野球選手にとっての一番の幸せは、自分から引退が言えることでしょう。控えに回される前に、引退を申し出ました。

いつも、笑顔でいらっしゃいますが……。

 オールスター戦に出たときに、ヤジるファンに対して、にらみ返したんです。すると、巨人軍の牧野ヘッドコーチに「にらみ返すな、笑顔で返せ」と言われたんです。「ファンは味方のはずなのに、ヤジるとは……」、と思うでしょう。「期待するからヤジるんだ。ヤジられていることは最大の声援と思い、自信に満ちた笑顔で返せ」と牧野さんは続けて言われました。その時は、カッとなって、ファンの声援で成長するということを忘れていました。ファンのお陰ということを忘れていたんです。
 それからは笑みを絶やさないよう努めました。周りで人が喜んでいるときには、その輪の中に入って一緒になって笑いました。笑顔で友人が増えましたね。

いただいたお手紙の字がたいへんきれいなことに少々驚いているのですが……。

 どんな仕事でも同じでしょうけど、品格というものが大事です。スポーツだから、野球だからといって野人でいいというわけではありません。きちんと敬語を使う、相手の話を落ち着いて聞くというようなことは必要不可欠なことであり、身につけていかなくてはならないものだと思います。どんなことでも勉強です。字を書くことも勉強です。はっきり言って、野球選手は字を書くことは少ない。少ないからこそ、書く必要があるんです。
 サインに関しても、まず書道の先生に字の崩し方を習いました。正しい崩し方の中に、自分の癖や書きやすさを加えてサインを作ったものです。最近の選手のサインを見ていると、丸ばっかりで、何が書いてあるのかわかりません(笑)。背番号が書いてあって、誰だとわかるくらいです。けど、それはそれで、今のスタイルなんでしょう。私の現役の頃は、家を出る前に、サインの練習をしてから球場に向かいました。きちんと練習して、気合いを入れてサインするということは、ファンに対するひとつの礼儀であると思っていましたから。こういうことも、いろいろな人からいただいた知恵、気づきです。いくつになっても、どんな仕事でも、学ぶ姿勢を持つことは必要ですよね。


今回は予定していたページ数に収まりませんでした。約40年間に及ぶ野球生活を数ページで表現すること自体無理な話と考え、割愛することなく、前編(今回)と後編に分けます。コーチになられてからのお話は次回に。乞うご期待。 →後編はこちら



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