2002.06.30
「予防の旬」
Well-being NEWS7月号掲載

校医来るまでに間のある春の風  稲垣紀子

 ここ日南では、早苗や蛍はいまはむかし、もうすでに田圃の稲は花を付けています。冒頭の句は、いささか季節がずれておりますが、ご容赦を。今回は、小学校での歯科健診について感じたことを、ふたつ、みつ。
 校医として一学年ひとクラスのこじんまりとした小学校を担当するようになって、5、6年が経ちます。毎年、一日から一日半かけての健診と、たまに、講話。健診から、さらに踏み込んでの予防に取り組む行動はとっていませんでした。毎回のように健診終了時には、担当の先生から御依頼は受けるのですが、その後はわりと梨の礫。そろそろ、次の行動の必要性を痛感しはじめていました。
 健診中、口腔内の状態のみならず、これから数ヶ月の間に起こりうるであろう変化や、発育を養護の先生にはそのつど伝えるも、胸中では、親御さんに直接伝えたいと、隔靴掻痒、切歯扼腕。予防や咬合誘導には、タイミングがあり、子供さんによっては、まさにそのタイミングは旬と言えるほどの短い期間であり、その旬をのがしたら、大変だろうなあと思うこと多々。
 健診後、校長先生や養護の先生とお茶を飲みながらそのことを伝えると、意外と前向きな返事でした。また、うちに来られる別の小学校に通う子供さんのお母さんとの話で、待っている子供は、健診を受けている子供に何本「C」が有ったかを聞いていて、あとで多い子供はひやかされる、ということでした。私自身も、ど近眼であった小学生の時に、視力検査で恥ずかしい思いをした記憶があります。
そこで、来年は三者面談のように、子供さん・親御さん・先生(教師、歯科医師)が、子供さん毎に別室で検診しましょうということになりました。
 内科や他科と違って、ムシバ予防・口腔内の健康維持にはタイミングが有ります。そのタイミングの中でも旬と言えるほどの効果的な時期は小学生の時期ではないでしょうか。加えて、健診時のストレス・不愉快を少しでも減らすべく、来年からは三者面談スタイルで実施していこうと思います。

2002.06.28
「マックス先生の友情」
PTDC主催「Max Bosshart講演会」に参加して

2002年3月16日 土曜日 13:00-17:00

東京都豊島区巣鴨3-31-2アルカディア篠A-5
高度治療義歯研究会附属歯科診療室すがも

概要

 演題は「ゲルバー理論の歴史的背景」、サブタイトルを「ギージーからパーラーまで、ゲルバーを中心にしたヨーロッパの咬合の流れ」として、Max Bosshart先生に、風邪で体調不良というバッドコンディションにもかかわらず、熱弁を振るっていただいた。
 Max Bosshart先生は、配付の資料によると、1949年スイス生まれ、ゲルバー理論に基づく総義歯の分野での講演・研修を世界で10年間行う。80年よりゲルバー教授のパートナーとして技工を行い、チューリヒ高等専門学校総義歯・局部床義歯主任を務め、特に審美歯科を研究している。詳しくは、拙連載「ものづくり名手名言」医歯薬出版・歯科技工・2001年11月号を参照されたし。
 「ギージーフィルム」(和田精密歯研)と「ゲルバービデオ」(堤嵩詩先生所有)を、観たあとに講演が始まった。
 ネクタイが、いかに頭の巡りを悪くするかというユーモアたっぷりの話で、場を和ませたあと、近代補綴学の父とも呼べる、ギージー教授の略歴から話はスタートした。
本名Alfred Gysi。1865年スイス、チューリヒの約50km西方のアーラウ地方に生まれる。父親は眼鏡師。当初、ジュネーブで学問を始める。その頃、ヨーロッパのほとんどの大学には歯学部がなく、医学部のひとつの科としてジュネーブ大学にのみ設置されていた。その後、叔父のすすめもあり、アメリカに渡る。フィラデルフィア大学で学び、博士号を取得。その時の研究が、カリエスに関する細菌の顕微鏡下での研究である。父親が眼鏡師であったため、ギージーは顕微鏡の扱い方はもちろん、作り方まで熟知していた。大学で使用していた顕微鏡の性能が良くなかったため、その2倍以上の性能の顕微鏡を作り、研究に励んだ。彼の研究は画期的な研究として、すぐさま、デンタルコスモスに発表された。このようなことも、ギージーが幼い頃から父の仕事場で、実験まがいのようなことをして遊び、父親もそれを許していた賜である。
 その後、1895年にスイスチューリヒ大学の齲蝕学(今でいう保存歯科学)の教授として着任。20世紀初頭には、有床補綴学の教鞭を執るようになる。ヒトの下顎運動の研究。咬合ならびに人工歯の咬合面形態の研究。咬合器の研究開発・作製。最初に解剖学的に正しい人工歯、トゥルバイトの開発。解剖学的な咬合器、ギージーシンプレックスの開発作製。蝋堤やグッドイヤーの開発した蒸和ゴムの義歯への応用、などその功績は枚挙にいとまがない。ギージーの研究意欲は晩年になっても衰えることなく、論文を発表し続けた。1957年92歳でなくなったあとにも論文が発表されたことなど、驚きである。
 途中、人工歯に関する閑話が披露された。陶歯の歴史は18世紀末に遡る。それまでは、獣の骨を加工して作っていたが、気味が悪いということで、フランスの薬剤師が現在の人工歯に近い材料を使って作ったのが始めとされている。その薬剤師の親友がイギリス人で、アメリカ人のホワイトと組んで大量生産に成功し、一躍その名を揚げた。のちのエスエスホワイトの始まりである。ここでアドバイス。「発見や発明は決して親友に教えるな!」。この話は続きがあって、ホワイトの息子は父の会社で働いていたが、薄給に耐えかね独立し、デンツプライの基礎を築く。ところが、このために父親の会社は倒産してしまう。さらにアドバイス。「息子にも秘密は教えるな!」。
 閑話休題、次はゲルバー教授について。本名Albert Gerber。1907年チーズ生産農家の家系に、7人兄弟のひとりとして生まれる。父親が42歳で仕事を引退した頃、まだ学生であった。エンジニアへの夢を抱いていたが、歯学の道へ進み、1933年に試験合格、1934年に学位論文提出。その後、歯科材料に興味を持ちウィーンで大学院進学、矯正・ペリオ・外科を学ぶ。ドイツのクルップ社のバックアップを受け、1939年に口腔内における金属の味の研究。その後、この研究は歯科用金属バイタリウムの開発製品化へと繋がる。のちに、この金属はその耐久性により、戦闘機のジェットエンジンに使われることになる。1938年、ミュンヘンでの兄の発言がきっかけで国外退去を命じられスイスへ。
 ゲルバー自身が治療したひとりの患者の顎関節症の発現を契機に、臼歯部咬合面形態の研究を始める。スイスの山岳民族の食生活・口腔内調査をベースにして、臼歯部咬合面形態には、ある程度の摩耗した形態が必要であるということに注目し、コンディロフォーム人工歯を開発。1990年没。

感想

 この講演は、あたかも、美術館や博物館で、陳列物や作品の解説テープを聴いているかのようであった。ギージー教授のシンプレックス咬合器や人工歯トゥルバイトなど、歯科の歴史のなかでのエポックメーキングな事象の裏話、発明発見に至る様々なエピソードなど、Max Bosshart先生にしか語れないであろうと思われるお話の連続であった。
 この講演を聴いて、咬合器は顎関節の解剖学的な骨の形態と、関節の周りの筋の機能解剖としての動きを、口腔外においていかに客観的に、しかも機械的に再現しようとして作られたものか、深く理解できた。恥ずかしながらこれまでは、咬合器とは補綴物作製のための単なる器具、補綴物に最低限必要な形態を付与し、作製するための道具として認識しているに過ぎなかった。しかし、それは誤った認識であり、正しくは、顎関節と、それを取り巻く筋の形態と動きを、口腔外に投影する器具として開発されたものが咬合器である。そうして、その咬合器を使うことが補綴物作製にメリットが多いということである。はじめから補綴物作製のために開発されたのではないと思えた。
 人工歯においても然りである。解剖学的形態をベースに、顎関節や歯牙の経年的変化を再現しようとしたものが人工歯であり、まず補綴物ありきではないような気がする。ギージー教授が親として咬合器や人工歯を生み出し、それらをゲルバー教授が育てあげた。
 欠損部を補うことが、補綴治療のはじまりとするならば、ギージー教授は物理的な欠損を補うのみならず、機能まで補綴すべき必要性を強調した。それをゲルバー教授が見事に結実させ、今日に至っている。
 ギージー、ゲルバーの流れを踏まえて、今後、いかに日本人に合った補綴物を患者さんに供せるかは、我々の仕事であろう。また、歯科材料や、それに伴う歯科医学の発達に、その時々の社会情勢・産業の変革と密接に関係していることにも少なからず驚きを感じた。
 ギージーが生み、ゲルバーが育て、我々が進化させる。その一翼を担うことが少しでもできればと思いつつペンを置く。また、ギージー、ゲルバーの流れを惜しみなく私たちに教授して下さった、Max Bosshart先生に感謝するとともに、堤先生との友好関係に敬服する。