2001.10.30
「口の中のビスポーク」
 ビスポークという言葉を聞いて、どのようなイメージを抱かれるだろうか。誂えの靴のことで贅沢なもの、しかし一生ものかな。ぴったりフィットしそうだけど、作るのに時間がかかりそう。ビスポークなんてお金持ちのすることで、私たちには縁のないこと。
 ビスポークの語源をご存じだろうか。原形はbespeak=ビスピーク、誂える、予約する、注文する、と辞書にはある。誂えてもらう際には、まず、自分の足を、それはそれは事細かに、採寸され、スケッチされ、触られる。加えて、爪はいつもどれくらい伸ばしておられるのか、どのような素材の靴下をお選びか、一日に何時間くらい履いてらっしゃるのか等々。汗の量や匂いまで尋ねるられるのではないかと思われるくらい、事細かな質問ぜめにあう。今度はデザインに対する自分の希望や好み、散歩の習慣や、歩く速さ、靴に対する執着心、歩くことへの尊敬の念に至るまでを滔々としゃべる。この、足を目の前にしての熱いディスカッション・語り合いが、ビスポークの由来だと聞いている。
 義歯、入れ歯と呼ばれるものがある。これは立派な、口の中のビスポークである。いちど、鏡を手に口の中を見て頂きたい。入れ歯のみならず、クラウンやインレーと呼ばれる金属もビスポークである。これらを総称して歯科では、補綴物(ほてつぶつ)と呼んでいる。この補綴物の中で最もビスポークらしいと思えるのは、何と言っても総入れ歯、総義歯であろう。口の中にご自分の歯が一本もない人のための入れ歯である。大ざっぱではあるが、総入れ歯の作り方は、まず型を採って(印象採得)、次に咬み合わせを決めて(咬合採得)、試着して(試適)、出来上がりとなる。出来上がったといっても、試運転、ならし運転が必要であり、その際、歯科医の適切な調整が重要である。ならし運転後も、定期的なチェックや調整は必須である。
 入れ歯、特に総入れ歯で悩んでいる人は多いと聞く。咬むと痛くて食事ができない。話そうとすると上の入れ歯が落ちてきて、話せない。笑ったり、歌ったり等もってのほかである。反対に、沢庵だろうが、煎餅だろうが食べることができる。リンゴの丸かじりも可能だ、と言う方もいらっしゃる。この差は一体どこから来るのか。
一言で言えば、どこで作ったかということに帰着するだろう。入れ歯を作る側を弁護をするわけではないが、まずは、入れ歯に対する思いや希望を熱く語って欲しい。入れ歯は、口の中のビスポークである、ビスポークであるからにはまずは、思い、不満、希望、要望など全てを話して欲しい。患者さんによって、痛みの感じ方も、美味しいと思う基準も十人十色である。よく「新しい入れ歯を作って欲しい」と、来院される。歯科医になって数年経つころ、やっとその言葉は単に氷山の一角であって、水面下に、長年にわたっての、数多くのトラブルや苦悩が隠されていることを知った。もちろん、隠された言葉や思いを、全て聞き出すのは歯科医の役目である。駆け出しの頃は、自分の祖父や祖母くらいの年齢の方を相手に、色々とお話を聞くことに躊躇したこともあった。
 入れ歯作りのもうひとりの担い手が、歯科技工士である。歯科技工士は、歯科医が提供した、模型や情報をもとに、模型や製作途中の入れ歯を、歯科医と各ステップごとにやりとりしながら、完成させてゆく。この歯科医と歯科技工士の二人三脚において重要なことが、これまたビスポークン=熱い語りである。物言わぬ模型や資料を前に、歯科技工士に活動弁士の如くに熱く患者さんの今を語るのは歯科医の仕事である。物言わぬ模型から、読みとれる情報をつかみ、聞き取れる声に耳澄まし、具現化するのが歯科技工士の仕事である。しかし、手品師ではないのだから、歯科医が、生きた情報をしっかり提供しないと、生きた入れ歯を作ることはできない。聞けば、かなり昔は、入れ歯を全て作っていた歯科医も結構いたらしい。今では、ほとんどが分業である。分業であればあるほど、歯科医と歯科技工士の熱いディスカッションは必須のものとなる。
 患者さんと歯科医のビスポークン(熱く語り合われること)、歯科医と歯科技工士のビスポークン、この三者の三人四脚があって、はじめて口の中のビスポークは完成しうる。しかしながら、実際、患者さんがこの良好な三人四脚の関係を捜すのは困難である。なぜならば、歯科医療側の情報公開はまだまだ不十分である、と言うより、皆無に等しいと言えよう。加えて、ローカルミニマムが通用する分野である、すなわち、患者さんがアクセス可能なエリアは決して広いものとは言えない。情報公開が不十分でエリアが狭いものであれば、歯科医院を訪ねた際にどうするのか。まずは、希望をしっかり持って、その歯科医に熱く語って欲しい。聞く耳を持つ歯科医であれば、おそらく患者さんの望みを叶えてくれるだろうし、その歯科医が、自分の力量的に無理だと思えば、より適切な歯科医を紹介してくれるであろう。靴をビスポークする人には、大まかに分けて、二つのタイプの人がいると聞いた。ひとつは靴そのものが好きな人。もうひとつは靴そのものも好きだが、歩くことがそれ以上に好きな人。入れ歯に関しての専門知識が十分になくても、食べることに関してはそれぞれの思いをお持ちだと思う。入れ歯でなく、食べることへの希望や不満、蘊蓄でも良いから、熱く語って欲しい。

 歯学部の学生の頃から、多くの歯科技工士の方々に色々と教えて頂いた。歯科医になりたての頃、ある歯科技工士の方に「どのような思いで、義歯を作っていらっしゃるのですか?」と聞いたところ、「自分の母親の口にはいる入れ歯だと思って作っています」との答え。その時はまだ、「自分の母親の入れ歯だと思って」の意味が実感として、掴めなかった。10年以上たった今、あの言葉はきっと、初任給で母親に御馳走してあげたときの、母親の嬉しそうに「美味しい」と言う笑顔をイメージしての言葉ではなかったかと思えるようになった。
 あなたのまわりにも、おそらくそのような歯科技工士の方はいらっしゃる。入れ歯で悩んで、あきらめる前に、もう一度熱く語って欲しい。熱く語れば、必ずや、満足していただける入れ歯を口にできると思う。なぜなら、入れ歯は口の中のビスポークなのだから。