2000.11.28
「天一の天丼」
 先日、雑用で東京出張でした。東京のみならず、出張前には、必ず食べるところをリサーチしてから出かけます。今回、日曜日の昼食しか自由にならず、リサーチの結果、銀座は「天一」に決めました。定宿が八丁目のこともあったのですが、「天一」に決めた最大の理由は4000円という値段です。家庭画報にその店の紹介が載っていて、特製天丼のことがでていました。4000円の天丼。まず思ったのは、おそらく日本で一番値の張る天丼なのでは?以前、池波正太郎の「東京のうまいもの」という本に、銀座八丁目の別の店の天丼のことが書いてあり、期待して足を運んだところ、いまいちだったことがあり、今回、あまり期待はしていませんでした。期待が大きいほど落差も大きいもんです。まぁ、今後の勉強のために(何の勉強や?)、日本で一番値の張る天丼ちゅうもんを食べてみてもいいやろう、ということで足を運びました。
 行きは速いもんです。宮崎-羽田間は70分間のフライト。宮崎空港の本屋さんで、たまたま「銀座の職人さん」という本を手にしたところ、「天一」がでていました。読みながら、ひょっとしたらスゴイかもと、徐々に期待で胸ならず腹を膨らましつつ、機内で丹念に読み、掲載写真も頭にインプットして、羽田から銀座に直行です。最近では、モノレールに乗らず、京浜急行で新橋です。乗り換え無しで行けるのは便利なのですが、電車を降りてから地上に上がるまではまさに迷路、アリの巣の中を歩いているみたいです。
 やっと地上にでて、チェックイン。午前11時で少々早く、荷物だけ預けて、いざ並木通りへ。「天一」の場所を確認して、11時半までにはまだ時間があると、ふたつみつの鞄屋さんをぶらぶら。時計に目をやると11時28分。そろそろ開店かなと、足を向けると、後方より「天一」目指して足早に近づく影がふたつみつ。先を越されてなるものかと、こちらも足早に。
 店内にはいると、ネクタイを締めた男性がにこやかに応対して下さいました。こちらの御店主かと思えるような落ちつきと、老舗のホテルのドアマンのような温かみを持った方でした。『あのう、天丼を』というと、テーブル席へ案内され、まずは緑茶が運ばれてきました。緑茶を味わいながら、奥に目をやると、カウンターが見えます。年輩の女性がお二人カウンターに座っています。かなりの常連さんのようで、カウンターの中の白衣を着たお店の人(おそらく揚げ担当)と、世間話に花が咲いています。通路をてきぱきとお店の人が通ります、男性はネクタイ、女性は着物でした。
 来ました、来ました、特製天丼。汁とお新香がついています。天丼の蓋を開け、汁碗の蓋を取り・・。アスパラの緑、椎茸の茶色、その椎茸に添えられた柚の黄色、汁は蜆の赤だしでした。蜆汁を一口飲んでから、おもむろに天丼に箸を向けました。このころはすでに、期待を大きく上回る満足感に酔いしれ、喜びを感じていました。アスパラを食べ、車エビを味わい、椎茸に箸を進めました。宮崎に住んでいることもあり、椎茸は結構良く食べますし、味はわかるつもりです。しかし、ここの椎茸は違いました。初めてでした、このような椎茸。歯で切断された面がツルンとしているのです。その切断面はあたかも、上品な茶碗蒸しを小匙で掬ったあとのようにツルン、プルルンとしていました。他の鱚やかき揚げの美味しさも言うまでもありません、筆舌に尽くしがたいとはこのことです。このころには緑茶から焙じ茶に変わりました。どんぶりの底のご飯も一粒残らず食べました。お汁の蜆も残らず頂きました。満足、充実、幸福。食べ終わったときには、何かしら久しく感じたことの無いような、上品な幸福感に浸っていました。 奥のカウンター席では、お二人の女性が、まだ世間話とともに料理を楽しんでおられるご様子。いつしかカルノもあの席でと思いながらテーブルを離れました。支払い済んで出ようとしたときに、大きな額に入った「天一山」の文字が目に入りました。その拓本の太い文字で書かれた天一山の横に、小さく顔真卿と書かれているではないですか。「あの顔真卿ですか?」と尋ねると、先の男性が『ある海軍の大将が持っていらっしゃったもので、手放すお話が出た際、「天一」の文字がはいっているのならうちの店に、ということで、先代のオーナーが求められたものです』との説明。実はカルノ、顔真卿の書を見るのは初めてでした。独坐大雄峰を書で表したら、こうなるとでも言うような書でした。
 値段、価値観に関しては人それぞれです。あえてコメントはしません。しかしカルノにとっては、貯金してまでも、また足を運びたくなるお店でした。いつしか奥のカウンターで・・、とは思いますが、カウンターに座れる「分」になるまで、さて何年かかるのでしょうか。

参考文献
「東京のうまいもの」池波正太郎 コロナブックス 平凡社
「銀座の職人さん」 北原亞以子 文春文庫    文藝春秋