1999.10.17
モス ハズ カム!
今年の秋は異常に暑く先日駐車場の桜がふたつみつ咲きました。モズが鳴いて桜咲く、やはり桜にはモズよりウグイスのほうが合いますようで。ところで北九州は小倉で初めてモスバーガーなるものを口にしてから20年、日南にもついにモスバーガーがやってきました。日南のような片田舎にいますと都会にあるものが日南にやってくるとうれしくなります。ここ数年、日南はかなり変わりました。郊外型大型本屋ができ、コンビニが現れ、ファミリーレストランが店を出し、そしてモスができた。松坂君が南郷町にキャンプインすることよりもニュースな出来事です。田舎に住む者にとって都会との大きな違いのひとつは選択肢が少ないことです。これでまたひとつ選択肢が増えました。選択肢が増えるとそれに伴い人的サービスも向上します。そうしてまたひとつ日南に住んでて良かったと思います。今までも新鮮安価な魚や肉は有りましたが、これらに付随するサービスはあまり大きな問題ではないような気がします。なぜ、GAPが受けるのか。服そのものの良さもさることながらやはりサービスです。GAP店内にはいるとあたかもゲームセンターか小さな遊園地に足を踏み入れたかのように軽度の興奮を覚えます。客を含めほとんどの人々がにこにこしてます。服を選ぶときも、レジに並ぶときも、ゲームに興じているようなエンターテイメントさを感じます。ある知り合いが、「伊東屋には文具を買いに行くのではなくてサービスを買いに行くんだ」と言っていました。同感です。品物に関してはお金を払うことにより全てが終わりますが、サービスに関してはお金を払わないために(実際は払っているんだろうけど)店を出るときの満足度は結局サービスによって左右されます。とにかくにも『モス ハズ カム』。


1999.10.11
薪能
先日宮崎県延岡市にて薪能を観ました。昨年に続いて二回目です。夕方会場に入り、まず延岡御膳に舌鼓、鮎酒は鮎の風味よろしく三杯も。さて、ほろ酔い気分で座席へ。日がかげり始めた頃、茂山千之丞、茂山あきらによる狂言「仏師」が始まりました。狂言とゆうものいつ観ても素直に笑えます。はっきり言って漫才の笑いとは全く違います。狂言の笑い・おかしさは古典落語に通ずる笑いでしょうか。とっぷりと暮れ薪に火が入りいよいよ能の始まりです。片山清司・片山九郎右衛門による「清経」。海の底を表す青い照明の中静かにストーリーは進んでゆきます。昨年の「船弁慶」に比べ動きは少なく、より玄人向けのように思えました。昨年は初めてということもあって、あっと言う間に終わった感じでしたが、今年は周囲まで結構目が届きました。その中でも面白いと思ったことは、小鼓の人が時々鼓をなめているのです、湿度の関係でしょうか。もしやこれが本当の舌鼓。翌日は鮎梁で舌鼓でした。


1999.10.03
朝の六時
三日の朝六時に坐禅に行きました。今年の夏からそれまでの六時半開始が六時開始になりました。飲んだ翌日の六時は結構きついのですが、お仕事帰りのお姉さま方を尻目にお寺に足を運びました。約一時間の坐禅が終わり帰ろうとすると、和尚さんが「来週から六時半に戻します」と一言。参禅して十年以上になりますが六時開始は今夏が初めてでした。理由はわかりませんが六時半が六時に、そし てまた六時半に、この柔軟性がカルノの性に合っています。禅には来るものは拒まず、去るものは追わずのようなところがあるように感じます。前日のお茶のお稽古の時の茶軸が次の言葉でした。
『行到水窮處
 坐看雲起時』


1999.10.02
ごごのにじ
先日、昼過ぎに高速道路を西進していました。10月になったというのにこの暑さは・・・と思いながら運転していると、にわか雨。するとどうでしょう、ドアミラーに虹が映っているではありませんか。その昔カルノ少年は虹の根元に宝物が埋めて有るという話を信じ、消えないでくれと口の中で叫びながら自転車を一生懸命漕いだ記憶があります。その虹は本当に奇麗なくっきりとした虹でした。熊本市の三号線沿いに住んでいた頃でしょうか、どこまでも続く菜の花畑の向こうにかかった虹めがけて走り出しました。しかし走っても走っても近づけません。漕げども漕げども近づけません。疲れて漕ぐのをやめた時、虹は薄くなり消えてしまいました。ところがこのドアミラーに映った虹は逃げるどころか追いかけてくるのです。時速百キロで追いかけてくるのです。種明かしをしましょう、にわか雨で濡れた路上の雨水を後ろのタイヤが巻き上げて霧状になり、そこに虹がかかっているのです。思わずover the rainbowを口ずさみました。ふと時計を見ると二時でした。