2000.01.31
「あ・はい」
 幼い頃から返事は「はい」と躾られたにもかかわらず、つい「うん」と言ってしまいます。さすがにこの仕事に就いてからは「はい」と言うようになりました。ある時ふと気がついたのですが、女性の中に(20代後半から30代前半)「あ・はい」と返事される方がいらっしゃいます。この「あ・はい」の「あ」はいったいどこから来るのか?「あっと驚くタメゴロウ」の「あ」なのか、それとも英語教育の普及による「不定冠詞のa」なのか。状況から判断するとおそらく「あっと驚くタメコさん」の「あ」なのでしょう。
状況その壱 「その本取って下さいませんか?」
      『あ・はい』
状況その弐 「次は御茶杓を清めます」
      『あ・はい』
考察その壱
状況その壱もその弐も、『今、あなたのおっしゃったことは常々頭にあったんです。たまたま今忘れていただけのことなんです』つまりこの「あ」は、「あっそうでした」の「あ」なんです、きっと。
考察その弐
電話での会話、電話の応対の際に良く聞かれる「あ」。相手の顔が見えないだけに、「あ」を頻繁に使うことによって間(ま)をおく。この時の「あ」。
結論・まとめ
「あ・はい」の「あ」は、どんな小さなことに対してもきちんと自己主張する風潮に加え、電話会話の普及・発達・日常化によって「はい」の前に付けられる不定冠詞と考えられる。ただしカルノには耳障りな「あ」である。


2000.01.10
「メディア二種」
カルノの日々の生活の中に、テレビは全くと言っていいほど存在しません。反動でラヂオと雑誌は溢れています。
まずラヂオに関して。朝5時頃から夜10時頃まで半径5メートル以内の何処かでラヂオが喋っています。身近にいないのは出張の時くらいでしょうか。そのためかわずかな変化にも結構気づきます。ゴルゴ13や山岡士郎の顔が巻を重ねる毎に少しづつ変化していくような微妙な違いです。昨年の春か夏くらいまでは大相撲の結果を翌朝のラヂオで流していましたが、昨冬頃からでしょうか、朝五時、六時、七時のいずれのニュースでも前日の結果は流れません。朝のニュースではその日の取り組みや見所についてのコメントだけです。また以前は誘致と招致を使い分けていました。自動車工場は誘致であり、外相会議は招致というように。最近はどちらも誘致と言うみたいです。まあ言葉は変わるものですから変化してもおかしくないのでしょうけど。逆に変えて欲しいこととしては、ニュースの内容というか言い回し。朝五時と六時と七時とほとんど同じなんです、時に一言一句同じこともあるように思います。もちろんニュースですから勝手に変えるわけにはのは分かります、しかし聞く方としてはもう少しニュースそのものが生きていて欲しいと思うのです。ニュース原稿にパターンがあって、その事件の日時と場所と人物の名前だけを入れ替えたような無味乾燥なニュースになって欲しくないのです。朝五時と七時では当然聞いている人の層が異なるのではないでしょうか、もう少し味を出して欲しいものです。可能ならばの話ですけど。
次に雑誌について。待合いに置く関係もあってかなりの雑誌を購読しています。特に女性ファッション誌に関してはかなり詳しいと自負しております。家庭画報の贅沢さもさることながら、やはり平和なニッポンを象徴するのが「VERY」でしょうか。経済や外交、世界の情勢はほぼ完全に蚊帳の外。ただひたすらファッションあるのみ。服飾はもちろんのこと、旅行、美食情報、お稽古ごと、生き方に至るまで全ての情報はファッションの延長上に位置されており、細部にわたっての細かなルール策定というVERYならではの手法によって読者をVERYの世界へと誘います。これぞまさしく大人の絵本!!のう天気で楽しめる絵本です。決して読み物ではありません、絵本として楽しんでください。VERY FUNNY!!


2000.01.05
「不完全の美」
先日、初釜でした。カルノの社中では昨年亡くなられたお家元夫人への供養の意味も有り例年とは趣向の異なった点初式(たてぞめしき=お稽古はじめ)でした。稽古することが一番の供養になるということで、花寄せや花月もありました。懐石の時に話題になったのが袱紗の寸法のことで、利休百首にあるように縦は九寸余り横は八寸八分、けっして正方形ではありません。お茶の世界にはこのように不完全の美とも言えることが多々あります。先生曰く「正方形になると小さく見える」。袱紗をはじめ殆どのお茶道具は飾って鑑賞する美術品ではありません。絵に額縁が必要なように、お茶道具にはその道具を使う人の手が必要です。あくまでもお点前の中での道具であり、美しさです、とカルノは思います。お茶を習いはじめた頃、色々な窯元でお茶碗を買いました。七つ八つ求めたときでしょうか、ふと、どんなに良い茶碗であっても自分のお点前では話にならん、まずはお点前が肝心、と考えそれ以来買うのを辞めました。良い茶碗はお金さえ出せば買い求めることは出来ますが、きれいなお点前はそうはいきません。大先生がお茶は学問でもなければ知識でもない、とおっしゃっていました。カルノもそう思います。不完全の美を追究するために、お茶は一生稽古と言われるのでしょうか。