デンタルエコー vol.127
2002年5月24日発行

連載●第10回


ライフスタイルについて

 小さな街のニコラ・シカも、とうとう最終回になってしまいました。

●分相応

 さて、ニコラの通うお茶の先生の茶室には「清規」として、次のような文が掲げてあります。

   「おいしいお茶を
    きれいなお点前で
    道具は分相応」


 お稽古のたびに、読むうちに、最後の分相応の言葉が深いものになってきました。習い始めの頃は、旅先で、窯元を見つけては抹茶茶碗を買い求めていました。七碗ほど買い求めたときでしょうか、ふと分相応の言葉が脳裏をよぎりました。それ以来、求めるのをやめました。お点前がおぼつかないニコラにとって、分不相応と思ったからです。きれいなお茶碗だから、おいしいお茶が点つのではなく、きれいなお点前だからこそ、お茶はおいしく点つのです。

●「君のほうが人生を楽しんでいる」

 ニコラが歯科医の修行中に、勤務先の院長先生がぽつり一言、「わたしは歯科医師になるために生まれてきたのではない」。この先生は、その県トップの業績を10年以上もキープされてきた方です。またある時、ニコラの師匠でもある、高名なる先生がこう言われました。「僕はまだ、ライフスタイルをつかんでいない」。その先生は、すでに40歳前にして、歯科医師としては勿論のこと、社会的名声、経済的なもの、ご自分の趣味など、はたから見て、すべてのものを手中に収めらているように思えました。その先生が続けて曰く、「君の方が人生を楽しんでいる」かの、高村光太郎はその「道程」の冒頭で、

   「僕の前に道はない
    僕の後ろに道は出来る」


と、読んでいます。確かに、人生とは終わりかけた時に、そのスタイルが見えてくるものかも知れません。しかし、ニコラはこう思います、やはりスタイルを明確に持った方が楽しいのではないか。


●仕事を引きずらない

 雑誌に「A LIFETIME OF TIFFANY」という広告が載っています。ドイツ車のダイレクトメールには「アクティブ・ライフスタイル・フェア」と印刷されてあります。
 仕事がライフスタイルに大きな影響を与えることは否めません。ややもすると、仕事がその人の人生を、引きずってしまいそうになります。服飾評論家の落合正勝は本の中で、「多くの人は、服を“服装”と混同しがちだが、服は、ただのモノに過ぎず、店頭に並べられた果物や野菜と同レベルであると考えべきだ。・・服と服装を、別次元で認識することである。」仕事とライフスタイルもこうあるべきだと思います。

 「ちいさいおうち」は、「たてたひとの まごの まごの まごのひと」の手によって、再び安住の地に引っ越すことが出来ました。「いなかでは、なにもかもが たいへん しずかでした。」の文章で、おわりです。
 小さな街のニコラ・シカも、これで、おわりといたします。



ちょっと気になるあの仕掛け −10−

見える香水

●見えない香りの落とし穴

 唐突な質問です。なぜ、トイレの香水に、キンモクセイの香りが多いと思われますか? ある時、患者さん用トイレに、使わなくなった、身体用の香水を使用したところ、スタッフからのブーイング。理由は「残り香みたいでいや」。バーやレストランで、椅子が不自然に温もっていると、前に座っていた人の置き土産みたいで、ちょっといやです。そこで考えました、答えは簡単。トイレの手洗い流しの脇に、その香水のボトルを置きました。そうすると、香りに気が付いた人は、「ああ、この香りか」と、見て納得。ただ単に、いい香りだからと、香りだけ置いておくと、残り香の濡れ衣を着せられてしまいます。冒頭の質問の答え、「キンモクセイであれば、みなトイレの香水だと思うから納得安心」。
 香水のみならず、見える安心は他にもあります。トイレの内鍵。線の細い針金のフックよりも、太いかんぬき式の方が、安心です。小さなノブ式よりもかんぬきの方が安心感を与えます。

●見える安心と情報開示

 治療中に鏡で口の中を見てもらう。撮ったレントゲン写真を一緒に見る。子供さんの治療前と後に、親御さんに見てもらう。また、見える安心を、別の表現で言うならば、情報開示です。治療費やカルテの開示、治療方法や診断の根拠を、イラストや本を見せての説明。これらもすべて、見える安心ではないでしょうか。
 扱う場所が、御本人には見えにくい口の中だけに、他のことに関しては可能なかぎり、オープンに見せて、安心を与える。見せることもちょっとした仕掛けのひとつです。


少・年・易・老・学・難・成

【その10】坐禅に学ぶ

 かなり前に読んだ、筒井康隆の小説に「急がば坐れ」という、パロディーが出ていました。その時は中学生か高校生で、あまりピンときませんでしたが、大人になって参禅が十年を越えた今、つくづく「急がば坐れ」の言葉の重さを感じます。
 坐禅のみならず、瞑想も同じだと思うのですが、このテンポの速い現代社会において、ひとりになって、じっくり考える時間を持つということは、かなり意識しないと無理なような気がします。出張中の飛行機や列車の中では、周囲の雑音や、車窓からの風景に心を奪われ、なかなか無念無想になれません。
 お寺で坐禅しているとき、もちろん、雑音は耳に届きます。早朝にも拘わらず車のエンジン音や、通行人の話声。雑音ではありませんが、雀や鳩の声、船の汽笛や他のお寺の鐘。坐禅中は、雑音は耳に届いても、しだいに雑念は沸かなくなります。
 始めから、無念無想は難しいでしょう。和尚さんは、「次から次に頭に浮かぶ雑念を、消すのではなく、走馬燈のように流しなさい」と、仰有います。コンソメスープを作るとき、アクをすくえばすくうほど、澄んだスープになります。坐り始めは、いろんな想いや雑念が、後からあとから脳裏に浮かびます。ところが、二、三十分も坐るうちに、しだいに頭の中が清澄になってきます。
 これに似た感覚は、長距離走の時にも感じられます。10キロ過ぎる頃になると、足が痛いや、脇腹が苦しいやらは感じなくなり、ひたすら、十メートル先のコースを目が追うだけです。
 参禅するようになって、ある日ふと自問自答しました。「なぜ、参禅するのか?」。その答えは「坐った後、気持ちが良いから」です。坐禅の後は、ラブロマンスの映画を観て、思い切り泣いた時のような、ちょっと晴れ晴れとした心地よさです。映画の涙は、けがれた自分の心や魂をきれいに洗ってくれます。坐禅の中で、自分自身と対峙し問答する事が、同じような効果を生むのかも知れません。たまに、「何のために坐るのか?」と、質問されることがあります。分かりません。しかしまた、参禅するでしょう。
 さすがは、筒井康隆。「急がば坐れ」



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