歯科技工 第1号 平成11年1月1日発行

 睦月 1999/01 「義歯の始めに」



年の始めのためしとて、
終わりなき世のめでたさを、
松竹たてて、門ごとに
祝う今日こそ楽しけれ。

 これから一年間、『義歯は人伝』として徒然なるままに義歯への思いを書いてゆきます。お時間の許す方はどうぞお付き合いの程を。始めに軽く自己紹介から。1961年に日南市で生まれ、父の転勤のため九州各地を転々と。祖父が桶職人だったためか幼い頃から肥後の守を持ち帰省の際には、匙を削ったり、弓矢を作ったりしていました。
 学生時代は義歯にはあまり興味はわかなかったものの陶歯排列だけは好きで、卒後医学部の口腔外科に入局。初めての総義歯咬合採得の時、どうして良いか解らずあせっていると、慣れた衛生士さんがテーブルにその日必要な道具を順序よく並べて行きます。初めてのフランス料理よろしく端から順番に道具を取り、冷や汗をかきながら採得したのを覚えています。またある日粘膜調整剤にて完全に痛みを消しレジンに置き換えたところまた痛みが出て、なぜだろうと真剣に悩みました。
 その後、平山歯科(鹿児島市)に勤務。平山先生との出会いが義歯にのめり込むきっかけとなりました。義歯の多いこと多いこと、離島からはある季節になると定期的に必ず平山歯科で総義歯をという患者さんも多くいらっしゃいました。
 平山歯科での二年間は義歯三昧の日々でした。毎日のように4、5床のセット、一月で百床、一年で千床、と言っても過言ではないでしょう。もちろん数の問題ではありませんが、ここでの勤務が我が人生を義歯命に変えてしまったことは確かです。
 本コラムのタイトルの「義歯は人伝」は、友人がふと口にした言葉です。自惚れのようですが、私がどんなに頑張っても作ることのできる義歯の数はたかだか知れています。そこでわずかであってもヒントが有れば伝えて行きたいという気持ちをタイトルに込めています。遠慮無くご質問、ご意見を。
 まず今月睦月は題して「義歯の始めに」。今正月にテレビやラジオから流れてきたこの歌を耳にされた方も多いことでしょう。皆さんは義歯の始めになにを思われますか。 指示書と石膏模型を見て作り始めになにを考えられますか。患者さんの名前、性別、年齢。院内ラボ勤務の方なら患者さんの顔、声、口調 まで知り得ると思います。私の場合主訴を解決してゆきながら対話します。なにをもう一度食べたいのかを。
 義歯にのめり込み始めた頃、野菜義歯、魚義歯、焼き肉義歯というネーミングを考えました。この作り方なら野菜は大丈夫(野菜義歯)、魚まで大丈夫(魚義歯)、焼き肉もオーケー(焼き肉義歯)。
 なにが食べられるかが義歯の終わりです。「あー美味しい」が義歯作成のゴールです。宇野千代さんの言葉に「旨いものを食べると生きていることの喜びを感じます」とあります。義歯を作るということはまさしくその人に生きている喜びを与えることなのです。
 魯山人のみならず器を作る人は必ずどんな料理を盛りつけるかを考えて作ると思います。しかし、どんな高名な陶芸家の器であってもその料理を引き立てることはできますが、決してその器で食べることはできません。
ある日のこと、銀座でカツ丼の有名なお店に行ったときのことです。私たちが食べていますと隣のテーブルに二、三人の男性のグループが座りました。一人がこう言いました。「歯が悪いのでカツを小さく切ってくれ」。それに対し店の人は「それじゃ料理にならん」。客は「味はどうでもいいから切ってくれ」。
 またあるとき、チューリヒでのこと。義歯のセミナーの先生たちとレストランにて昼食、ふと横のテーブルを見ると総義歯装着者らしい年輩の御婦人。運ばれてきた料理はウインナーシュニッツェル(ウイーン風カツレツ)。あんな大きなカツレツをどうするのだろうと見ていると、何のことはない。ナイフとフォークで適当な大きさに切り口元へ。そこで義歯食の登場です。
かれこれ十年以上経ちますが、大学卒業後、臨床に携わるようになりカリエスの多さに嘆き考えました。そこでカリエスになりにくい食事があるのではないかと食べ歩くうちに、日本料理のしかも京料理にたどり着きました。
 京都円山公園の「いもぼう」に立ち寄ったときのこと、えびいもの形がしっかりして煮くずれしていないにもかかわらず箸がすうっと通る。この時この「義歯食」がひらめきました。総義歯装着者の味欲(味わうことに対する欲求)を充分に満たす料理が創れるのではないか。総義歯装着者がよりアクティブになり、今まで箸をつけなかった人が「食べてみようか」と箸を延ばす。高齢化社会から高齢者社会になりつつある今、家族みんなが同じものを「いただきます」で食べ始め、「ごちそうさま」で食べ終わる。あたりまえのことがあたりまえに営まれる。

 冒頭の歌の題名を御存じですか。正解は「一月一日」です。ではメロディーを口ずさみながら。
義歯の始めのためしとて 義歯作りは患者さんの「美味しい」の一言がゴール。
終わりなき世のめでたさを 美味しく食べ続けられることは生きる喜び。
松茸食べてああ美味しい 味わえてこそ入れ歯。
痛み無きこそ楽しけれ 痛いと何を噛んでも砂を噛むような。

参考文献  「日本唱歌集」  岩波文庫 堀内敬三編
「私の長生き料理」集英社文庫 宇野千代


今月の義歯食 「福俵」
福俵
材料のめやす
(1人分)
油揚げ 1枚
山芋 適量
納豆 適量
チリメンジャコ 適量
調味料:しょうゆ 適量
厚揚げの中に山芋、納豆、チリメンを詰めて炭火で焼く。俵の大きさを小ぶりに。 炭火で焼くのは余計な油分を落とすため。
お正月のお飾りにも登場する、富の象徴でもある俵。お正月にふさわしいメニューとして選んでみました。因みに同じ名前で「今年も豊年と農家の収穫を喜ぶ福俵」として神無月の和菓子に有りました。写真にはねぎらいも一緒に写っています。


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