ものづくり名手名言 歯科技工 第26号 平成14年11月1日発行

第26回 自分の足跡を残したい
                  Interviewee 柴田 慶信(曲げ物師)





柴田 慶信 しばた よしのぶ
1940年秋田県比内町生まれ。1964年営林署勤務後、曲げわっぱの世界に入る。1984年職業訓練校指導員免許取得。1986年伝統工芸士認定。1988年グッドデザイン商品認定。1992年アジア漆文化源流調査中国四川省訪問。1993年アジア漆文化源流調査チベット訪問。1996年アジア漆文化源流調査ベトナム訪問。1997年「世界の曲げ物小さな展示館」を工房内に開設。2002年ドイツ国際見本市特別招待実演。スイス曲げ物工房訪問。
柴田さん親子の手→

(有)柴田慶信商店

〒017-0046 秋田県大館市清水3丁目2-65-12
HP:http://www.magewappa.com/
(有)柴田慶信商店


まず、「大館曲げわっぱ」の歴史と、おおまかな作り方を教えて下さい。

 曲げわっぱの歴史は非常に古く、遠く奈良時代に遡ると言われています。起源は定かではありませんが、関ヶ原の役後、豊臣方に味方した水戸藩主・佐竹候が、秋田に移封(1602年)されてからと伝えられています。天然秋田杉を有する大館城主・佐竹候は、森林資源を利用して家中の窮状を救うため、下級武士の副業として曲げわっぱの製作を始めました。また、原木の搬出には、住民が年貢米借出代替として、山から城下までの運搬をしました。現在の大館市盤木町は昔、お足軽町と称して曲げ物業が発達し、弁当箱やせいろなどが作られ、近郷はもちろん、人馬によって南部あるいは津軽へ、また、米代川を下って能代より酒田、新潟、京までも運ばれました。
 基本的な作り方は、天然秋田杉を手割りまたは機械製材により薄く剥いで熱湯につけます。板が軟らかくなったところを取り上げ、台上でコロ(木を曲げるための道具)に巻き込むようにして曲げ、重ね合わせ部を仮止めして自然乾燥させます。乾燥後、接ぎ手部を接着剤で接着した後、とじ穴を開け、この穴を桜皮で縫い止めます。こうしてできたわっぱに、別に作った蓋板または底板を入れ込み、接着して仕上げます(一部、大館市観光協会発行パンフレットより抜粋)。

営林署勤務から曲げわっぱの世界に入られた理由は?

 気障な言い方のようですけど、「自分の足跡を残したい」。曲げわっぱの世界に入って、一年くらい経った頃には、この言葉に、それまでの思いが集約されていました。
 中学卒業後、定時制高校に通いながら営林署に勤めていましたが、いつも、早くこの地下足袋を脱ぎたい、と思っていました。たまたま友人が『曲げわっぱは儲からないようだけど、ずっと長く続いて来た』と語るわけです。そのときはじめて、曲げわっぱを意識しました。25,6歳の頃でしたか。営林署を辞める2年程前から準備はしましたが、今思えば、どうなんだかはっきりしません。小さな頃から、木の板や何かでおもちゃを作って遊んでいたことなども背景にあったのか、どういうわけか、すっと曲げわっぱの世界に入っていきました。折しも、2人目の子供が妻のお腹にいるときで、最後は『まずやってみたら』という妻の一言に背中を押されました。全く、先のことは考えていませんでしたよ(笑)。

その後はどうでした?

 さて、この世界に入ったものの、弟子入りはせず、お店から商品を買ってきては壊し、仕組みを調べては独りで作る毎日でした。あるとき、横で見ていた小学生の息子が『父さん、それ3.14かければすぐだよ』と、教えてくれるんです。無我夢中ゆえに、そんな簡単なことすら、気がつかないんですね。独学独歩と言えば、聞こえはいいですが、決してそんなことはありません。曲げわっぱのお店に行って、人気商品を見ては真似をし、卸し屋さんのアドバイスに耳を傾ける日々でした。お客さんの声、声というよりクレームや注文が一番ためになりました。お客さんの声に、弟子入りしたようなものでした。
 伝統のある曲げわっぱの世界に飛び込み、一匹狼のような存在でしたから、いじめのようなものはありましたね。けど、一度も辞めようと思ったことはありません。負けん気が強かったのでしょうか。
 そのうちに、国が伝統工芸を後押しするような制度や予算ができたんです。ここ大館でも、1984年に活路開拓ビジョン実現化事業として、大学教授やデザイナーの方が、一年がかりで来られていろいろと指導してくださいました。師匠のいなかった私にとっては、先生がたのご指導や提案を、とても素直に聞くことができました。大手さんや、6代目、7代目と歴史のあるお店は、大館曲げわっぱになかった新しい技法を取り入れることに、抵抗があったみたいですね。私にとっては、まさしく、活路開拓ビジョン実現化でしたよ。

ろくろ技術を導入されたのは、それからですか?

 時松辰夫先生(東北工業大学)を中心に教えていただきました。ろくろを取り入れてみてまず驚いたことは、それまで、自分ではわっぱが正円のつもりでしたけど、ろくろで回してみると一目瞭然ですよ、わっぱのいびつさが……。ショックでしたね(笑)。
 また、昔からの定番に、お櫃があります。よくお客さんから、最後のひと粒まで、しゃもじでお米をすくいたいという声を聞きました。ろくろ技術を導入して、初めてそれが解決できました。お櫃の底板にろくろで丸みをつけることによって、継ぎ目の角をなくして、ご飯がつまらないようにできたんです。
 漆のしばき塗りを取り入れたのも、その頃からです。当時はウレタン塗装がほとんどでした。しかし、どうしても私はウレタン塗装が好きになれず、漆にこだわっていました。ろくろ技術、漆のしばき塗りと、次々に大館曲げわっぱにそれまでなかった技法を取り入れたものですから、周りからは厄介な存在と見られていました。

1988年にはグッドデザイン商品の認定も受けられていますね。

 わくわくするんです、なぜか。ものづくりをしていると、わくわくするんです。また、これをどんな人が買ってくれるんかな、どんなふうに使ってくれるんかなと思うとわくわくするんです。ですから、デザインや知恵も本当にフッと湧くんです。しかしそれも、結局、みなさまがたに教えていただいただけのことなんですよ。
 特に器は、必ず手にしてみます。手にしたときに優しいデザインとは何かとか、触ってみて優しいなという表情の作り方とはどういうことなのか。基本的に日本人の心は、見た目よりも手にしたときの優しさを求めているんですよ。それは、普通のことなんですけど、その普通のことを普通に表現することがいかに大切か。ごく普通のことを表現すればいいだけのことなんです。このようなことも全部教えていただきました。先生方とお昼ご飯を食べるときにとかね(笑)。
 時松先生があるとき、『まず、技術を身につけなさい。そうすれば、お客さんのどんな要望にも応えることができる。応えることができるようになるということが、技術の確立ということなんだよ』と言われました。続けて『技術を身につけるということはマスターしようとすることではなく、お客さんの注文を素直にそのまま作ることなんだ。お客さんの言葉どおりの物を作ってみるということ。作品によっては、作るために別の道具が必要になったりする。マスターしよう身構えなくても、お客さんの注文を一つひとつ作ることが、技術を確立していくことなんだから、まずの一歩が近道なんだよ』ともおっしゃいました。ですから、おもしろいと思ったリクエストには、1個2個の注文でも受けるようにしています。その1個2個の注文を乗り越えると、その先にまた別の新しい世界が広がってくるんです。

ここ数年、雑誌によくお名前を拝見するのですが……。

 いつ頃からか、曲げわっぱを文化としてとらえ始めました。その後、伊勢神宮はもちろんのこと、多くの神社で曲げわっぱが祭器として使われていることを知り、その意を強くしました。
 「世界の曲げ物小さな展示館」を工房に開設したのも、その考えからです。大学の先生がたとお話するうちに、まずは大館の曲げわっぱから日本の曲げわっぱへと、視野が広がりました。そのときから、曲げわっぱの収集を始めました。百貨店さんの催事に参加するため、日本全国を回ります。その街々で、骨董屋を覗いてはわっぱを探します。そうこうするうちに教授から、曲げわっぱは何も日本だけの文化ではなく、海外にもあるということをお聞きし、中国、チベット、ベトナムと、ご一緒しました。
ここにあるチベットのわっぱは、蓋をとるとバターの匂いがします。彼らが自家製バターを入れていたわっぱなんです。目を閉じて鼻を入れると、彼らの生活が脳裏に浮かぶでしょう。土地によって、作り方や構造に若干の違いがあり、デザインはかなり違います。中に入れるものは、それぞれですね。だから、曲げわっぱは文化なんですよ。
 雑誌が取りあげてくれるのも、曲げわっぱを、単なる伝統工芸品、昔ながらの器としてとらえずに、文化としてとらえたことを評価してくれたのではないでしょうか。

今年の3月には、ドイツから招かれたということですが。

 3月14日から20日まで、ミュンヘンで開催された「ドイツ国際見本市」に招待されて行ってきました。アジアからは3人で、ドイツにも古くから曲げ物があるため、日本の曲げわっぱは、特に関心を集めることができました。持参した商品も完売でした。ドイツにおけるものづくりに対する意識の違いを、肌で感じましたね。マイスター制度に象徴されるように、ものづくりに携わる人びとの感覚の違いも感じました。そのせいもあってか、滞在中、非常に丁重にもてなしていただきました(笑)。
 このお話をお受けするときに、ドイツ、スイスの曲げわっぱの工房見学の希望を伝えていましたので、見本市の後、ドイツ、スイスの工房を見て回りました。工房のみならず、図書館や資料館で、文献なども見せてもらいました。数百年前のわっぱの文献や資料が、今なおきちんと残っているんですね。今回、曲げわっぱの歴史の深さを再確認できました。工房では、3代前から使われている器械があったり、古いわっぱが展示してあったり。それらのわっぱの中には、まだ私が復元していない技法やデザインがたくさんあるんですね。
 残されたこれからの時間を考えると、私が収集したわっぱや、世界各地で目にしたわっぱ、つまり先人たちが作ったわっぱを、ひとつでも多く手がけて復元してみたいと思います。まだまだ挑戦したいですね。これといった器械もない頃に、道具らしい道具が確立されていない頃に、これだけ精密なわっぱを作っているし、隠れた技も随所に施してあるんですよ。1個でも多く復元し、体験していきたいと切に思いますね。そうして、その体験が、子供に遺伝していけばいいと強く思います。



Interviewee 柴田 昌正 (曲げ物師)
しばた よしまさ

1973年柴田慶信氏の三男として生まれる。1991年大館の高校卒業後、岩手の大学へ進学。1997年新潟での会社勤めを経て、実家へ。

昌正さんが幼い頃、お父さんは、どのような方でしたか?

 小さな頃から、父の仕事を横で見ていました。父はいつも仕事場で仕事をしていましたから、ご飯の時間となると、よく呼びに行っていましたね。野球のバットとか、おもちゃを木で作ってもらっていました。当たっても、まったく飛ばないバットでしたけど(笑)。中学校の授業参観のときなど、父は作務衣(作業着)のままで学校に来るんです。自分は剣道をしていましたけど、友達連中は父の風貌を見て剣道家と勘違いしていたみたいです(笑)。

いつ頃から、家業に入ろうと思われたのですか?

 父は、この世界に入りなさいと言ったことは一度もありません。しかし、自分では高校を卒業するときには、いずれ帰ってこようと決めていました。2年間、新潟で曲げわっぱとは無関係の、携帯電話関連の仕事を経験した後に、帰ってきました。曲げわっぱの仕事は小さい頃から見ていましたから、他の人に比べると入るのに抵抗はありませんでした。ほとんどの同級生は、地元には就職先がないため、仙台とか東京に出ていきましたね。地元に帰ってくると同時に結婚しましたが、地元の女性だったこともあり、相手からも別に反対はありませんでした。

初代のお父さんを見て、どう思われますか?

柴田(昌) 確かに、何十代と続いている仕事など見ると、継続は力なりだなあと、思うこともあります。しかし、何もないところから何かを作り出した父を見ていると、そのことは何十代目に匹敵する凄さがあると思います。自分は、それを継続する立場ですから、父を越えようとか深く考えることなく、まずは今の仕事をしっかりやることを心がけています。かといって、同じものをずっと作っていこうとも思っていません。自分がやりたいようにやろうとは思っています。

お父さんと一緒に仕事されているんですか?

 展示会などでいないときは別ですけど、ほとんど一緒に仕事をしています。弁当箱などの定番のものを作るときは、ほぼ形になっていますからあまり質問することもありませんが、何か新しいものを作るときは、よく父に聞きます。しかし、それがよくないときには表情が違いますね。たまに、父のアドバイスに納得がいかないときもありますけど。
 前の会社の社長も言っていましたが、会社としては即戦力がほしいわけです。実際、自分が帰ってきて、結婚もしましたから、父は一家族余計に給料を払わないといけないわけです。帰ってきた頃は、傍目に見ても、あまり儲かっているようには見えませんでしたから、父の足を引っ張らないように、少しでも生産性を上げることを考えました。材料の無駄にはなりますが、早く仕事に慣れるように、自分の仕事が終わってから、絶えず何かを作って練習しました。やはり、自分自身、豊かな生活をしたいですからね。
 自分が定番のものを作るようになると、父にとっては別の仕事をする時間ができるわけです。新しい形とか、新しい技法とかに費やすことができるんです。そうすると、よりお客さんの目を引きつける、新しいデザインや形のわっぱが増えるようになると思います。

オリジナルの作品などは……。

 入れ子の弁当とか、いくつか形になったものがあります。自分のオリジナルができたときは、やっとできたなと感動し、展示会などに持っていってそれが売れたときには、さらに感激ひとしおです。3年目の頃だったと思います。
 しかし、最初の展示会のときは、「いらっしゃいませ」の一言も言えませんでした。売り上げもほとんどなく大赤字で、次からそこのデパートからは声がかかりませんでした(笑)。

お父さんからのプレッシャーは感じませんか?

柴田(昌) 全くないですね。父は何もないところから、這い上がってきたのだから、自分もやれると思うんですよ。ですからプレッシャーはありません。むしろ、尊敬ですね。


 今回、柴田さんの取材で、この連載の最後となりました。今まで26回、約30人の“ものづくり”に携わる人びとにお話をお聞きしました。振り返ってみて、強く感じる共通点が一つあります。それは「志の高さ」です。彼らにとってはあくまでも、ものづくりは手段であり、目標やゴールは別のところに存在しているように思えます。わっぱを文化としてとらえていらっしゃる柴田さん然り。
 連載終了にあたり、もったいないと思うことがあります。登場していただいた方の生の声・お話をお伝えできなかったことです。拙い文章ゆえ、彼らのお人柄・奥深さなどが、読者の方に十分に伝わらなかったことを反省しております。
 読者のみなさん方も、連載に登場された方がたにお会いになる機会があれば、ぜひ「『ものづくり名手名言』で読みました」と、声をかけてみてください。生のお話の中に、きっと、文章にできなかったものを、感じ取られることと思います。
 足かけ3年の連載を読んでいただいたみなさまに感謝いたしますとともに、このような機会を与えていただいた編集部の方がたに心より、御礼申し上げます。
長い間、本当にありがとうございました。


次号(12月号)では、河野秀樹先生に、世界中の“ものづくり”の方がたにお話をうかがって見えてきた共通点、そして「ものづくりとは何か?」といった核心について、語っていただく予定です。ご期待ください。(編集部)



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