ものづくり名手名言 歯科技工 第21号 平成14年3月1日発行

第21回 花ものどが渇いている
                  Interviewee 野崎 智光(スイートピー生産農家)





野崎 智光 のざき ともみつ
1964年宮崎県生まれ。油津中学校在学時に農業に興味を抱き、高鍋農業高校畜産科、宮崎大学畜産学科へ進学。大学卒業後2年間、派米農業実習生として米国で研修。帰国後、養豚家を目指したが、畜産を取り巻く現状の厳しさを実感し養豚経営を断念。1992年に日南市で切花栽培を開始。現在に至る。
野崎さんの手→


太陽農園:宮崎県日南市大字風田3589-29


まずはじめに、スイートピーについて教えてください。

スイートピーは、イタリアのシチリア島原産の花で、地中海気候のような温暖で乾燥した土地を好みます。その後、イギリスで毎年開かれる品評会などで、品種改
良が進んできました。
日本に伝えられたのは明治時代ですが、花自体はあまり日持ちせず、都市近郊で細々と作られていたにすぎません。昭和57年頃に落花防止剤が開発され、長距離輸送が可能になったため、切り花として大々的に生産されるようになりました。
本来なら秋に種を蒔いて春に咲く花です。それを、夏に種を蒔いて、晩秋から翌春まで咲かせようとするのがこの仕事で、だいたい、8月に種を蒔いて翌年の4月に花が終わり、その後5月下旬から6月上旬にかけて種を採ります。

この道に入られたきっかけは?

中学2年の時のホームルームの時間だったでしょうか。「将来、何になるか」というテーマで発表することになりました。その時に「農業をする」とみんなの前で公言したのです。父はサラリーマンでしたし、そう言った理由は、はっきり覚えていません。その後も「農業をする」と言い続け、高校、大学と農業の道へ進みました。

はじめから「花」だったのですか?

はじめは畜産でした。高校も大学も畜産学科で、大学卒業後に研修に行ったアメリカの農家も養豚農家でした。大学4年生の時には、就職活動をしている同級生を尻目に、体力トレーニングや農場用英会話の練習に励み、就職活動は全くしませんでした。
日本に帰ってきて、畜産の会社に勤めましたが、いつも何かが頭に引っ掛かっていました。それは、アメリカ・ネブラスカ州の研修で見たことです。研修先は養豚農家で、家族みんなで豚を養っていました。息子さんは、父親のことを「ボス」と呼び、毎週月曜日にはミーティングがあります。そこは肉用の豚ではなく、より付加価値の高い母豚を作って、自分たちでトラックに乗せ、養豚農家に売りに行っていました。
「自分たちで作ったものは自分たちで売る」という姿勢に、非常に感銘を受けました。ワシントン州のリンゴ農家も同様でした。箱詰めをするパッキングハウスと呼ばれる建物に、商社やスーパーの買い付け担当者が直接来て契約するんです。そうして、大型トレーラーで農園からお店に直接リンゴを運んでいく。
農場・農園の規模の大きさだけでなく、もちろん日本人にもそういう方はたくさんいらっしゃるのですが、農場主がしっかりとした経営者でもあるということが、たいへん印象深いものでした。作るだけでなく、販路拡大などの営業活動も含め、きちんと経営している。しかも家族みんなで働いているんです。そういう姿勢を見ていて、「すばらしいなあ」と本当に思いました。
ですから、帰国後、会社に入りましたが、「自分で興こして経営して、やっと農業かな」と思ってはいました。
また、会社勤めであっても、やはり、豚のことで24時間心配ごとが絶えない。いつも時間や気を使うのであれば、会社のためよりも自分のために費やしたいと考えはじめ、起業したいと思うようになりました。
そこで何も持たない私にとっては、花をやることは好条件でした。花なら初期投資が比較的少なくてすみますので、明日からでもできる。畜産にこだわらなくとも、農業ならいいかと考え直し、花を選んだのです。

初代で農業を興すのは大変でしょう。

大変でした(笑)。興そうと決めたものの、土地・情報・道具に至るまで、ともかく農業に関するものは鍬ひとつ持っていませんでした。そこで農協に行って農業をしたいと相談したところ、まずは、土地を探そうということになり、たまたまこの土地がみつかりました。6反歩、1,800坪の土地です。当時のことを考えるとゾッとしますね。バタバタと始めて、何とか今までやってきたかなという感じです。
1年目の1反歩は、農協の指導のとおりに借金して作りました。2年目からは知恵がついてきて、オフの時期にビニールハウスの中古を探してきて、次のシーズンに間に合うように、バラして運んで組み立てました。しかし、一番助けられたのは、この土地の人々です。この風田地区の農家の方がたは熱心で、しっかりした仕事をする人が多いんです。昔は稲作、葉タバコ、サトウキビで、その後、ビニールハウスで絹莢エンドウを多く作っていました。そして輸入物に押されるようになってからは、スイートピーを栽培するようになりました。作物は変わっても、植物のことを知り尽くしているので、どんな作物でもきちんと作れますね。

でも、すぐには教えてくれないでしょう?

もちろん、教えてはくれませんよ(笑)。ここで花作りを始めて10年になりての10年間が、ある意味、財産と呼べるでしょうね。
今では、地区の伶人の役も務めています。伶人というのは、お祭りやお祝いごと、お葬式の時に笛を吹いたり、神楽を舞ったりする人のことです。これには趣味で楽しんでいた音楽が役に立ちました、まさしく「芸は身を助く」ですね。ある時、この地区掛ける。すると、その人との間に距離はあっても必ず返事が返ってくる。また、二人がお互いに歩けば半分の距離ですみます。やはり、一人でできるものではないですね。そんな協同意識に根ざしているのが、農業の仕事のやり方のような気がします。
まあ、教えてもらうために、笛を吹いたわけではありませんけど(笑)、そのようなことも含めてお付き合いさせていただくうちに溶け込んで、地元の先輩方も受け入れてくれたんでしょう。

その後は順調でしたか?

先ほども言いましたように、地元の先輩方の助けがあって少しずつ軌道に乗ってきました。作る技術もさることながら、いかに良質な種を残すかということの重要性に気づきました。残すべき花の種を見極める先輩方の「目」には敬服します。この地区の農業の歴史や苦労の凝縮エッセンスが、良質の種を見極める「目」なのです。
今、45,000株のスイートピーを栽培していますが、各品種とも最初はたった1本の選ばれた花から増やしていったものです。スイートピーの最後の仕事は種取りです。どの種を捨てて、どの種を残すかは、極めて重要な作業になります。ですから、その都度アドバイスをいただきました。
先輩方の平均年齢は65歳くらいですが、その見極める「目」は鋭いですね。私の場合、見ているつもりなんですが、見えていないんですよ。教わったことのなかで一番大切なことは、この「見る目」を養うということです。

ビニールハウスにはボイラー設備などもあるようですね。

はい。でも、お隣の先輩はきわめて自然に近い状態で花を作っています。不思議なほど自然です。私なんか、湿度のコントロールが必要となれば、すぐ加湿器や除湿器を使おうと考えてしまいます。湿度や温度をコントロールしようと思えば思うほど、自然に逆らうことになり、逆らって作ろうとすればするほど、エネルギーやコストがかかります。
ところが、先輩のなかには、上等な設備が整っていなくても、上手に自然の風を取り入れて、すばらしい作物を作る方がいます。温度は温度計、湿度は湿度計で測ってしまいがちですが、その先輩は、すべて「肌」で感じるそうです。気温はもちろんのこと、風や雲の流れ、月の満ち欠けなど、季節や気象を数字ではなく、経験として身体全体でとらえているのです。
農薬の使い方でも同じです。気温が高いとすぐ蝶がやってきて卵を産み付け、幼虫が葉を食い荒らしますから農薬を散布します。寒くなると虫はいなくなりますが、ハウスを締め切るために室内が蒸れてしまい、カビや菌類が発生します。先輩は「一番いい薬は換気だよ、空気の流れだよ」と教えてくれました。実際にその方の使う農薬の量は非常に少なく、ハウスの中に上手に自然を取り込んでいます。このように、作物が植わっている期間は、気温や湿度が非常に気になります。
この仕事を始めたばかりの頃のことです。気温が上がってのどが渇けば水を飲み、服を脱いで陰で休んでいました。すると先輩が「あんたののどが渇いたときには、花ものどが渇いている。自分ばかり陰に入らないで花にも水をやりなさい」と何気なく言われました。花は動物と違って何も言いません、自分のことと花のことがいつも一心同体となって考えられるようにならないとだめでしょうね。
ご覧になっておわかりのように、花作りはほとんどが手作業です。手を動かしただけ、よいものができます。しかも、農業は決して「1+1=2」にならない仕事ですから、完璧主義では疲れますよ。生き物が相手ですけど、ものを作ることが好き、作りあげる過程が好きですね。

研修生の方がいらっしゃいますね。

彼には「うちは経験する場で、見る目や扱い方は先輩方に聞いてくれ」と話してあります。もちろん、10年間で私が得たものは話しますけど、長い長い経験をもっていらっしゃる先輩方を乗り越えるのは、無理のような気がしますね。残念ながら、やはり勝てません。
先輩の仕事を見てまねる、コピーしていくうちに、農業のセンスとでもいいましょうか、それが少しずつオリジナルなものになっていく。そのためには時間が必要です。
先輩方の仕事は、それぞれ同じように見えても微妙に違います。そこにはやはり、その人なりのセンスというものがベースにあるのだと思います。

バラも作っていらっしゃるようですね。

はい。ただ、ほとんどがスイートピーです。今ではスイートピーはこの地区の代表的な作物ですし、扱いやすい花です。気候にも合っていると思います。その点バラは、はっきり言ってここの気候には合っていないかもしれません。でも作りたいんです。
花を作る者にとって、バラはひとつの夢であり目標、まさしく華です。ですから、収益を度外視してでも、自分で納得のいくバラを咲かせてみたいですね。そのために少量ですけど作り続けるし、勉強も続ける。ものを作ることが好きですから、それで飯が食えるなら、収益度外視のバラ作りも厭いません。

今後の課題は?

まだ、全然取り組んでいませんけど、流通・販売の仕組みをもっと勉強したいですね。今は電話とファクシミリしか使っていませんけど、インターネットを利用した方法にも取り組まないといけないでしょうね。
花は、市場に出してその日の相場で値段が決まります。値が安い時は「そのうち上がるよ」という気持ちではなく、確実にいくらで売れるものを作ると考える。これが経営者としての責任だと思います。今作っている花の値段が高いだろうか安いだろうか、わからずに不安を抱えながら市場に送るよりも、「いくらで売れる花をこれくらい作っている」という明確なイメージと自信をもつことが大切です。


お百姓さんの「百姓」は、百の姓・苗字のことで、それは百の仕事ができることを意味すると聞いたことがあります。何事も、ひとつのことを極めれば極めるほど、一見無関係に思えることまでも、必須になってくるということなのでしょうか。また、逆の見方をすると、真理を見抜く「目」をもつ人は、何事に対しても対応可能といえるのかもしれません。これまでのインタビューのなかで、幾人かの方から異口同音に、この「目」の話が出てきました。手仕事とは目仕事といえるのかもしれませんね。



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