ものづくり名手名言 歯科技工 第18号 平成13年9月1日発行

第18回 夢に挑む科学
                  Interviewee 柳田 理科雄(空想科学研究所主任研究員)





柳田 理科雄 やなぎたりかお
1961年鹿児島県種子島生まれ。応援団長を務めるなど楽しい高校生活を経て、京都大学の受験に失敗。翌年、東京大学理科T類に進学するも中退。学習塾の講師となる。その後、自ら立ち上げた塾は瓦解するが、1996年春、処女作『空想科学読本』が大ヒット、1999年空想科学研究所を設立、現在に至る。(「空想科学[漫画]読本」より抜粋引用)東京都練馬区在住。

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科学の道に進まれたきっかけは?

 ほとんど物心ついたときから、科学者になりたかったんです。科学者というよりも、はじめは「科学」という言葉そのものに憧れました。
 5歳の頃でしょうか、独楽で遊んでいた時のことです。父の高校時代の恩師という方が私に「なぜ独楽は回るのか?」と聞かれました。「わからない」と答えますとその方は、子供用の百科事典を持ってきて、独楽が回る理屈を丁寧に説明して下さいました。その時、私は非常に感動して、「このようなことを考えることを、何というのですか?」と聞いたところ、「それは科学だよ」とおっしゃいました。これが「科学」との初めての出会いといえるでしょう。
 その後、テレビや漫画を見ていて、科学に対する漠然とした憧れはさらに膨らんでいき、科学者になれば怪獣を生み出すこともできるし、巨大ロボットを運転することもできる。宇宙に行くことだってできるのだと(笑)……。では、「この科学というものを一生やっていける職業とは何か?」と考えたところ、それは大学教授であるとわかりました。では大学教授になろうと、小学5年生の頃にははっきりと決めていました。

その後、順調に科学者の道に?

 当時、種子島から大学へ進学することは非常に難しいものでした。そこで、まずは鹿児島市内の学校に進むことを考え、私立の中学校を受験しましたが失敗。そのまま祖母と鹿児島市に住み、鹿児島市内の公立中学校・高校へと進学しました。
 中学校に入り、数学や理科を勉強するにつれ、それまで持っていた、疑問やもやもやしたものが、まさしく一刀両断に解明されていくことは、私にとって非常に嬉しく楽しいものでした。まずは疑問やもやもやがあり、勉強するなかで理論という武器を手にする。手にすると今度は切ってみたくなり、切ってみると切れ味がよいので大切にする。だから、私の勉強は、すごくうまくいったのでしょうね。
 ところで、今の教育はややもすると、疑問を抱く前に、もやもやを持つ前に武器を与えられ、押しつけられる。「先生、これは何の役に立つ武器ですか?」と聞くと、「大きくなったら役に立つから、今、使い方を覚えなさい」。これでは子供たちは、本気で武器を手にしようとはしないんじゃないでしょうか。
 高校生になり、進学する大学を決める頃には、「宇宙論」というものに非常に興味を持っていました。読んだ本のなかで一番面白かったのが、当時京都大学教授であった佐藤文隆先生の本でした。そうして、ただそれだけで、京都大学理学部を受験しました。受験後に自分では合格したつもりでいましたが、発表を見に行くと結果は不合格。その足で鹿児島に帰る途中、偶然にも新幹線の網棚にあった新聞で、佐藤先生の退官を知るわけです。その途端、京大に対する憧れは消え、翌年、東大に入りました。
 ところが、いざ大学に入ってみると、がっかりしたというか、あきれました。大学に入れば、今度こそ好きな物理を思う存分、毎日勉強できると勝手に思い込んでいたわけです。しかし実際には、英語3コマ、ドイツ語2コマ、etc……、というカリキュラムで、1週間21コマ中、物理はたったの1コマだけでした。なぜ、こんな理不尽なことをするのかと失望しました。
 もう一つ期待していたのは「知力」を得たいということでした。「人間の頭で一体何がどこまでできるのか」というような疑問を浪人時代に持ち始めていました。ところが、その「知力」を感じさせる教授がいなかったんです。ただ、一人だけ哲学の先生にそれを感じましたが、総体的に大学というものに対しては熱意を失っていきました。ですから、次第に大学にも足が向かなくなり、結局5年在籍して中退しました。
 しかし、小学校5年生の頃からずっとやってきたことをあきらめるということは、余程の決心が必要だったはずです。今考えると、その決心を保留したまま、やけくそになっていたのではないかとも思えますね。ただし、知の力――知力には非常に興味を感じていて、自分自身、知力を磨きたいと強く思い続けていましたね。

中退した後は?

 大学に入学した頃から、家庭教師や塾の講師のアルバイトを始めました。おそらく、大学に足が向かなくなった反動かもしれませんが、次第次第に塾の仕事にエネルギーを注ぐようになりました、大学を辞める一年ほど前には、この仕事は私の天職であると思えるほど、のめり込んでいました。誰が教えても伸びなかった子供が、私が教えるとすぐ伸びたり、自分自身の教える力が伸びていくのが自分でもわかる、というようなことが面白かったですね。
 いくつかの塾の講師を勤め、北京で駐在員の子ども対象の塾を立ち上げたりしたあと、神奈川に自己資金で自分の塾を始めました。ところが、これは6年で幕を閉じることになるわけです。今考えると理由ははっきりしていました。その時、私は自分の理想の教育を掲げて、塾を経営していたのです。生徒の理想・夢を実現すべきなのに、自分の理想を実現しようとしていたのです。これは大きな間違いでした。最後の頃になると、月収5万円という月もありました。
 にっちもさっちもいかなくなった6年目の夏に、中学からの友人が「ウルトラマンの本を書かないか」と、話を持ってきたのです。その友人とは、中学時代から、ウルトラマンや仮面ライダーについて、毎日激論を交わした仲でした。彼は中堅出版社の中堅社員になっており、彼の企画として、中学時代の激論を本にしないかというわけです。
 はじめは無理だと思いました。なぜなら、字を書くことの嫌いな私にとって、本を書くことなど不可能に思えたのです。「何字くらい書けばいいのか?」と聞くと、約10万字との答え。あきらめかけました。では、「本を書けばいくら貰えるのか?」と聞けば、彼の目算では本1冊、1万部売れて100万円。それを聞いて思わず「100万円!?」と聞き返しました。月収5万円の私にとって、100万円は凄い魅力でしたよ(笑)。
 34才の夏にこの話がきました。夏は夏期講習で身動きがとれないため、9月から書き始め、12月で書き終わりました。4カ月で書きあげるなんて、今では到底無理です。火事場の馬鹿力だったんでしょうね。しかも、その友人の尽力で、印税契約にしてもらうことができました。全くの素人がいきなり単行本を書くということも例外であるし、その場合も通常は、売れても、売れなくてもその原稿がいくらという契約です。しかし私の場合は、重版されたら、その分印税が入るという契約。これまた例外中の例外でした。結局、1万部の予定が最終的には65万部売れたんです。本は売れたのですが、入金の時期が刊行の翌々月という契約だったために、本を出した翌月をもって
私の塾は幕を下ろしました。
 その後、数年間は、これまた高校時代からの友人の経営する塾で講師として働いていましたが、昨年(2000年)2月をもって、天職と思った塾の講師を引退しました。

初めての著書のテーマ「ウルトラマン」には、何か特別な思い入れなどがあったのですか?

 種子島で育った私は、子供の頃、海の向こうには何かがあるといつも思っていました。この海の向こうには、鹿児島という大都会があって、そこから山を越えて行くと福岡というすごい都会があって、そこから海を越えると大阪という考えられない都会があって、そこからまた海を越えると東京という夢のような大都会があって、そこにウルトラマンは毎週やってくる。そのニュース映画が「ウルトラマン」という番組だと思っていました。つまり、幼い私にとっては、東京は非現実のものであり、そこに現れるウルトラマンも非現実。よって両者同格だったわけです。東京に住むようになった今、東京は非現実から現実のものへと変わり、私のなかでは同格のウルトラ
マンも現実感を帯びたものとなったのでしょうね。

処女作『空想科学読本』から、徐々に対象が拡がってきているようですが……。

 私にとって科学というものは、自分の世界観というか、身につけた考え方の一つなのです。極端にいえば、お相撲さんが料理をしたら、みんなちゃんこ料理になるように、私が見たものは、ウルトラマンであれ、仮面ライダーであれ、時代劇、昔話、偉人伝など、何を見ても科学・物理が物差しになって見えるわけです。刀がなければこれを切ったらどうなるという話も出てきません。切ってみたいと思うから、この刀を作るということもあります。いずれにせよ、何もないところからは何も生まれませんね。

最近、現実と非現実が近接してきているような気がするのですが……。

 私が子供の頃は、テレビの画面を自分で動かすことなど、想像だにできませんでした。しかし、私の10年くらい後に生まれた人にとっては、テレビゲームは生まれた時から家にあるものです。非現実が現実の世界に降りてきた時、新しいものすべてに飛びつけとはいいませんが、それらにいちいち驚き、戸惑っている間に、どんどん次のものが降りてきます。こうした時代に生きるわれわれは、新しいものを認めて積極的に自分の現実のなかに取り入れていったほうがいいのではないでしょうか。
 このような本を書いていると、たまに「夢の世界を壊すな」といわれることがあります。いい換えれば、夢の世界は夢の世界のままにしておけ、現実から夢の世界に手を伸ばしてはいけない、ということと同じでしょう。夢を実現しようと思わず、手を伸ばさないのであれば、その夢は単なる架空の世界に過ぎないわけです。激しい変動の起こる今、夢は実現すると思った者の勝ちのような気がします。突拍子もない夢をどんどん見ていったほうがいいし、実現できるかどうかを悩むのではなく、実現するための方法を模索したほうがいいと思います。携帯電話が普及したといっても、いまだにウルトラセブンに出てくるような腕時計型ではないし、2本足で歩くロボットができたといっても、アトムのように空を飛べないし、正義の心は持ってませんしね。

ある意味では、科学者が夢の世界を現実のものにしてきたのですね。

 もちろんそうでしょう。ライト兄弟が空を飛んだから旅客機が生まれ、ジェット機が登場し、ロケットが月に飛んだのです。しかしそれらは、普通の人たちの夢があったからこそ実現したことも忘れてはなりません。空を飛びたい、もっと快適に飛べたらいいな、もっと速く到着したい、そして月に行ってみたいと……。夢を実現する科学者がいるから、現実のものとなるわけですが、常にその先を夢見ている普通の人たちがいるからこそ、夢は拡がり、進んでいくのだと思います。
 専門知識のあるなしにかかわらず、どんな人にも夢は持ってほしい、見てほしい。夢のなかには発展に繋がらない夢もあるかもしれない、しかし、人々の見る夢を強要はできない。ひょっとするとその数多くの夢のなかに突然変異的な夢があるかもしれない。人々が夢を見てくれるから、その力が科学者を研究へと向かわせる。まさしく「夢に挑む科学」なのです。

知力を持って努力すれば、めざましい変化が起こる


歯科技工・歯科医療ともに、物理とは、切っても切り離せないものなのですが……。

 直接仕事に役に立たなくても、自分の頭で考え、自分の力で何かを生み出そうとする意欲があれば、思わぬところから、発展の芽が生まれてくると思います。
 技術職の人ほど、常に現実を目の当たりにしていますから、夢は見にくいとは思います。そうした意欲は、すなわち熱意とか根性ともいえますし、時としてどこかしら馬鹿馬鹿しいものに映るかもしれません。しかし、そういう熱意があれば、新しい価値が生まれると思うんです。自分の石膏の練り方は絶対に気泡が入らないとか、だれがどんなに下手な練り方をしても長持ちするとか。たとえ小さなことでも、少しずつでも先に進むと思います。そうすれば、次の人にとってはその少し先が出発点になるし、その先がクリアされれば、さらにその先がスタート地点になっていきます。
 技術・科学というものは再現可能なものです。再現不可能なもの、その人にしかできないものは芸術です。再現可能であれば、自分が起こした進歩は、必ずや次の人がそれを再現して、さらに次につなげてくれる。自分一人の努力がそれだけで終わらないところが、技術・科学の凄さです。それをリレーすることによって大きな夢が実現するのです。技術や科学は一子相伝のものではないですから、どんな見当はずれでもいいから、意欲を持って努力してほしい。そのような数多くの小さな努力のなかに、何らかの突然変異を起こすものが出てくる、何かが起こる。そうなると、全体として、めざましい変化が起こっていくのではないでしょうか。


彼の本を読んでいると、登場するウルトラマンをはじめ、いろいろな事象が常に真摯な思い・姿勢で分析・解析されていることに気づきます。科学者になると志し、塾の講師を経て、今の仕事に。いつの間にか、彼自身が科学者と教師の融合型に進化していったのかもしれません。そうして彼の仕事は、必ずや若き科学者を生み育てていくと確信しました。名言の「夢に挑む科学」、紛れもなく彼自身、今なお夢に挑み続けているひとりなのです。

参考文献
 1)柳田理科雄:空想科学読本 第二版.メディアファクトリー、東京、1999.
 2)柳田理科雄:空想科学大戦.メディアファクトリー、東京、1998.
 3)柳田理科雄:空想科学[漫画]読本.日本文芸社、東京、2001.


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