ものづくり名手名言 歯科技工 第13号 平成13年1月1日発行

第13回 且坐(しゃざ)
                  Interviewee 神鳥 憲三(熊野筆製造販売)



今回は、広島県熊野町に「筆づくり」の人を訪ねました。


神鳥 憲三 かんどり けんそう
1946年11月3日広島県安芸郡熊野町生まれ。1968年広島電機大学卒業。その後、父の筆づくり、「史芳堂筆舗」を継ぎ、現在に至る。

神鳥さんの手→


史芳堂筆舗

〒731-4214
広島県安芸郡熊野町3998-2


↑「書く」ということは人それぞれに違う

まずは熊野町の筆づくりの歴史からお聞かせください。
 筆は中国から漢字と一緒に入ってきたといわれておって、日本では700年代頃 から作られていたとされています。江戸時代には、御家人の内職として筆づくりが盛 んやったそうです。
 熊野の筆づくりが始まったのは、約160年前、江戸時代も末頃のことで、盆地という土地柄もあってか、農業だけでは食べていけんと、木こりとして和歌山県熊野地方や 奈良県吉野地方に出稼ぎに行っていました。そして、出稼ぎの帰りに筆や墨を買って、途中行商しながら帰ってきたそうです。また、広島は昔から牡蛎が有名で、牡蛎船が瀬戸内海を通って大阪方面に行きよったみたいで、これもまた帰りに、大阪や堺で筆の材料やなんかを仕入れてきたみたいですね。
 明治の中頃からは、学童用の筆の生産地として有名になってきました。今では約8割のシェアを占めるといわれますね。書筆に限らず、画筆、化粧筆、陶器筆、歯ブラシも作っています。

最近はボールペンやパソコンを使うことが多く、筆で文字を書くということがあまりないのですが…。
 そうですね、確かに筆の消費量は減ってきています。そもそも「書く」という こと自体が、変わってきていますね。
 書道に限らず、柔道、剣道、茶道など、道がつくものには必ず「教え」があるわけで す。この「教え」が若い人には堅苦しい。また、書くことだけでなく、どんなことで も楽なほうへと流れる。
 たとえば、パソコンで書いた文章が、将来、現在の古文書のように残るのかと問え ば、疑問です。ワープロやパソコンでは、インクは紙に滲まないし、染み込まないで しょう。書くことそのものが、上っ面だけの浅いものになってきているような気がし ますね。
 もともと熊野町では、大量生産、大量販売をしていました。しかし、作る側が高齢化 してきて大量生産ができなくなる。また、使うお客さんの側も高齢化というか、昔は 習字のお稽古にと子供さんが消費の中心であったのが、最近では大人の方やさらに年 輩の方が、日常的な文房具や筆記具というよりも、趣味で使う筆を求められるように なってきています。ですから、ある意味以前より高級なもの、高価なものを求められ るようになりましたね。高級というのは、何も材料が高価だからというのではなく、マンツーマンの筆づくりをしているという意味です。

「弘法筆を択ばず」と言いますが…。
 書くということは、上手い下手ということやなしに、もって生まれた筆圧と か、書く癖とか、人それぞれ違うはずです。そうであれば、いかにその人に合った筆 を選ぶかが重要です。1、000円の筆だから上手く書けない、1万円の筆だから上手く 書けるということではありません。1、000円の筆でもその人に合っていれば、それな りに書けます。その人の癖だとか、何を何の目的で書くのか、何をどのように書きた いのか、このようなことを聞きながらの筆づくり、これがマンツーマンの筆づくりです。
 百貨店の伝統工芸展に出店していると、「中国製の筆はどうなのですか?」と聞かれることがあります。中国製の筆は確かに安いですし、なかにはよいものもありますけど、あちらの作る人が、はたして日本の文字を理解しているかは疑問です。作ってい る人が使い手の気持ちを考慮しているかは疑わしいですね。私ら筆づくりの者は、世の中の流れやお客さんのクレームや評価を取り入れながら作っているつもりです。私らにいわせてもらえば、きちんと筆を選んでほしいですね(笑)。

書といえば、日本では、いまだに平安中期の書が最高といわれていますが…。
 1,000年以上も前に書かれた書がいまだに高く評価されるというのは、1,000年前から何も変わっていないということでしょう。墨を硯ですって、筆で紙に書く。文 房四宝(筆硯紙墨)も同じなら、書くということも同じなんでしょうかね。
 その頃に傑作が多いというのは、「自然」だったからではないでしょうか。硯にしても墨にしても紙にしても、今よりも、より自然のものであったでしょうし、そうして何よりも、書く人の心が自然であったのでしょうね。素直な気持ちで、邪念なしに自然に書いていたからこそ、1、000年たった今でも、見る人の心に響くのではないでしょうか。

お仕事柄、書家の方ともお付き合いがあるようですね。
 ある時、若い書家の方が「サンバの筆ありますか?」と、買いに来られました。ちなみに、サンバというのは、ベトナムにいる日本鹿の10倍くらいの大きさの動物で、保護協定で守られているためサンバの毛そのものが高騰しています。それで、いろいろとその方のお話を聞いてみると、本当はサンバの筆を買いに来られたのではなく、どう書けばよいのか迷っていらっしゃったんですね。壁にぶつかって悩んでい
らっしゃったようです。結局、サンバではなしに別の筆をお勧めしました。
 これがきっかけでお話しするようになりまして、またあるときには、その方に「"且坐"という字を書いてみなさいよ」とアドバイスをしたことがありました。「且坐」というのは、「まあちょっと坐ってみなさいよ。そんなに肩肘はらんと力抜いてみたらどうですか」というような意味の言葉です。しばらくしてその方から、「入賞しました。神鳥さんの筆のお陰です」との電話がありました。入賞されたのは、もちろんその方の実力があったからなんですけど、「筆のお陰です」といってもらえると嬉しいじゃないですか。私ら仕事していて、このような方が何人もいらっしゃると励みになりますね。
 書写と書道は違います。心を込めて書写される方もおられるでしょうけど、仮にお手本があって、ただ書き写すだけが書写とすれば、筆はただ書き写すだけの消耗品にすぎません。書道となれば、心が入っています。心を入れて書かれるとき、筆は動きとなります。作る側にしてみれば、心を込めて作っているのですから、心を込めて書いてほしいと思いますよ。

筆づくりのほとんどが手作業ということですが…。
 極端ないい方をすれば、100年前とほとんど変わっていないでしょう。昔と同じ材料で、昔と同じような作り方をしています。この仕事、私で三代目になりますが、あとを継ぐときには、当然のように機械化を考えました。全17工程のなかにはいくつか機械化できる工程がありますけど、結局、手作業でやっています。手が汚れるから、面倒だからなどなどの理由で機械化を考えますが、やっぱり機械化すると味気ないですよ。
 たとえば、材料の獣毛の「油ぬき」という作業があります。油を抜くのであれば、洗剤でただ単に油を洗い流せばいいのかというと、そうではないんです。今も昔ながらの方法で油を抜いています。まず、籾殻を燃やして灰にします。そしてその灰を獣毛にまぶし、鹿皮でくるんで灰と獣毛を一緒に揉むんです。「灰揉み」といいます。灰によって物理的に獣毛表面の油を取るだけやのうて、さらに細かい傷を毛の表面に付けることによって、墨含みをよくすることにもなるんです。これを知ったときに、手作業の大切さや、先輩方の偉大さを痛感しました。
 また、お客さんからクレームがきたときに、手作業してれば原因がわかりますけど、機械やったらすぐ機械のせいにして、ごまかしてしまうでしょう。そういう意味でも味気ないですわ。

技の伝承も含めて、今後の筆づくりについてお聞かせください。
 私自身、気がついたら父親のあとを継いでいた、というのが本音です。私の若い頃は自動車産業が花形でしたから、一時期自動車関係の会社にいたこともありました。是が非でも家業を継ぐというような気負いはなく、いつしか身近な筆づくりに戻っていました。
 息子もあとを継いでくれるみたいですけど、小さな頃にキャッチボールをしていて、大きくなったら、そのボールが筆に取って代わっただけのような、そんな感じがします。
 正直いって、これから筆の需要がどんどん伸びるとは考えにくいですね。太く長くは無理にしても、先細りにならぬように、私らの代がひと踏ん張りせにゃならんでしょう。熊野でも店を閉じるところが出始めていますが、きちんと地に足を付けて、きちんと作って、きちんと売る。これに尽きると思います。「人間性」「心」がないと生き残っていかんでしょう。悪かろう安かろうでは、結局、身を滅ぼすことになります。
 加えて、後継者が日向に出られるようにしてあげんといかんでしょう。幸いにして、高島屋さんをはじめ、いくつかの百貨店さんが「伝統工芸展」というような催し物を企画してくださいます。そのような場に出店することも、日向に出る一つの方法です。しかし根本は、常日頃きちんと作ることしかないように思えます。
 若い頃は感じませんでしたけど、老眼鏡を掛けるようになると、後継者の育成の必要性を感じますね。私らの先輩方は、技を盗めとかいっていましたけど、自分の技は、やっている本人にしかわかりません。これからは、口で伝えるだけやのうて、ちゃんと筆記して伝えていく必要があるでしょう。私らは尺貫法で教わりましたけど、これからは尺貫法ではなしにメートル法で教えんといかんでしょうし…。つまり、その時代にあった方法や表現法で伝えないと、伝わっていかないでしょうね。



 帰りしな「書家では誰がお好きですか?」とお聞きしたところ、「顔真卿です」と即座に答えられました。
 日頃レジンや陶材を扱う際に手にしている筆ですが、筆本来の使用目的といえる「書くこと」からは遠ざかっているように思います。筆、万年筆、鉛筆、ボールペン、ワープロと、時代の流れとともに筆記用具も変化してきています。そのような変遷のなかで、しっかりと筆が生き続けているのは、筆づくりに携わる方がたが、常に「書くこと」を真摯にとらえて、筆を作られているからだと思いました。
 神鳥さんはお話のなかで、「筆は消耗品ですから」とおっしゃっていました。また「筆は動きです」とも話されました。仮に筆が消耗品であるとしても、それゆえにその動き、すなわち書くことにこだわる。書くことをきちんと踏まえての筆づくり。今回も、ものづくりの奥の深さに、あらためて感銘を受けました。



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