ものづくり名手名言 歯科技工 第10号 平成12年10月1日発行

第10回 鞄に流行りはない
                  Interviewee 秋山 哲男(鞄職人)



 1988年の雑誌『POPEYE』に「棟方志功も愛した昔ながらの手作りカバンが新鮮」との記事を見つけ、早速電話。この1本の電話から、注文したトランク(写真)をめぐって、TBSの『そこが知りたい―これが噂の一生もの』という番組(1995年放映)に2人そろって出演することになろうとは、夢にも思いませんでした。

秋山 哲男 あきやま てつお
1954年大阪市生まれ。1978年関西大学商学部卒業後、大手カー用品量販店入社。1978年24歳で家に戻り実家に就く。



秋山さんの手→


馬場万鞄店

〒542-0083
大阪市中央区東心斎橋1-12-3


来年、「馬場万鞄店」は創業100周年を迎えるということですが、歴史をお聞かせください。
 その昔、福山藩に仕えていた秋山家は、明治維新とともに家禄を失い、祖父が12歳のときに福山から大阪に船で出てきたそうです。輸入洋品雑貨店「馬場万」に丁稚として入り、その後、暖簾分けしてもらい、主に英国スタイルの鞄を扱う店「馬場万支店」として独立。祖父の頃は自分自身では作らず、馬場万本店にいたときに知り合った英国人の鞄職人に作り方を教えてもらい、職人さんを養成して鞄を作っていたそうです。うちの看板のマークも、その英国人がデザインしてくれたものです。
 その後、馬場万本店がなくなり、本店がないのに支店もなかろうということで、「馬場万鞄店」に名前を変えました。当時、日英のパイプはかなり太く、お互いの信頼関係もしっかりしていたみたいですね。そのような経緯もあって、1910年(明治43)の日英博覧会に馬場万の鞄も出品することになったみたいです。残念なことに、作り方を教えてくれた英国人が誰だったのか情報が全く残ってないんです。チャンスがあれば英国に行って、鞄のルーツを尋ね歩いてみたいですね。

ちなみに、筆者の見た『POPEYE』では、次のように紹介されていました。 「世界的に有名な版画家・棟方志功や、内村鑑三、平民宰相・原 敬など、1901年に開業して以来、多くの人に愛用されてきた馬場万のカバンは、一世紀近くたった今も、すべて手縫い。機械で量産している同業者からは“日本のルイ・ヴィトン”と評されている、大阪一古い鞄屋である。ガッチリ手縫いされた重厚なカバンは、30年以上も使え、修理もできるから、使いようによっては一生だって愛用できる。…後略…」

卒業して大手カー用品量販店に入社されたのは?
 大学卒業の頃は、旅行会社かサービス業に就きたいと思っていました。親父は「わしの代で終わりや」と常々いっていましたし、私が継ぐとも思っていなかったみたいですね。
 カー用品量販店では、本部に配属されました。当時その会社は、上場前で店舗拡大の真っ最中でした。いろいろな数字を追う状況のなかで、サービスが形骸化していくことに疑問をもつようになりました。サービス競争ではなく、単なる価格競争になっていったんです。会社からは、最優秀新人賞なんかももらったりしたんですけど、結局、本当のサービスとは何か、人のためになることは何か、との自問自答のなかで、会社を去ることにしました。

家に戻ってこられてどうでした?
 会社を辞めて家に戻ってきたとき、ある人に「おまえの求めるものは、身近にあるやんか」といわれて、確かにそれもそうやなと思い、深く考えることもなく親父の横で仕事を始めました。父の仕事ぶりは小さな頃から目にはしていましたけど、そもそも継ぐ気などありませんでしたから、そんなに興味もって見てたわけでもありませんでした。
 親父が現役の間は、だいたいずっと一緒に仕事をしてきました。「こうしろ、ああしろ」とうるさくはいわない人でしたが、聞くと教えてくれました。たまに「これ、あかんわ」ゆうて教えてくれました。
 はじめの仕事は、名刺入れとか、ネームタグとか小さな物を作っていましたけど、はっきりいって、売り物というより基本的な目打ちの使い方とか、縫い方とかを覚えさせるために作らされていたようです。そのうちに「若のんを買うわ」といってくださるお客さんがぼちぼち出てきてくれましたけど、親父の評価はいつも「まだまだや」でした。結局、最後まで「まだまだや」でしたけど。正直いってお客さんに育てられましたね。たまに、私の初期の作品が修理なんかで返ってくると、「これ売ったんか」と思うと恥ずかしくて、お金払って買い戻したいくらいです(笑)。


日本人の暮らしに調和する秋山さんの作品


そのあとの鞄作りは?
 やはり、鞄が修理で戻ってきたときに自分の力がわかります。鞄は正直ですから、必ず作りの弱いところから傷んできますね。作った鞄が戻ってくるまでに少々時差はありますけど、使われた鞄が戻ってくることで、自分の技術が進歩しますね。また、お客さんの使い方に問題はなくても、こちらの生地の使い方、選び方に問題があることもあります。
 この仕事に就いてわかったことは、こちらもお客さんの顔が見えるし、お客さんもこちらの顔が見えている。お客さんのなかには、こういう鞄を作って欲しいと、紙や布で作ったモデル持参で来られるかたもいらっしゃいます。それだけの思いをもって来られる、それに対して、こちらもできるだけ希望に合った鞄を作るようにはしますけど、どうしても譲れない部分は譲らない。
 結局、ものづくりとは、作り手と使い手の追っかけごっこであって、たとえお客さんが満足されても、作り手にとっては「いつまでも満足いけへん」となるのかもしれませんね。

100年間の鞄作りの変遷は?
 英国では数百年の歴史がある鞄も、日本では、たかだか100年といってもいいでしょう。そのような鞄ですから、根本的に流行りというものはないと思います。鞄は人が使うものですから、祖父の頃、親父の頃、私と、ほとんど基本的なデザインは変わっていません。むしろ、最近つくづく思うことは、昔どおりの材料で昔どおりの道具を使って作ったら、案外良いものができるんじゃないかということです。
 来年の100周年のこともあるので、革屋さんには「いい革がはいったら言い値で買うわ」と、いってるんですけど、なかなか手に入りません。良いタンニンなめしの革が、最近は市場にあまり出てこないそうです。世界最高のタンニンなめしの革を作る英国の会社が傾きかかっているとの話もあります。聞くところによると、仏国の有名な鞄会社が、その会社の革を使わなくなったらしいのです。鞄は人の体に触れるものですから、昔からタンニンなめしの革が主流でした。タンニンなめしは、染色や出来上がりの艶、鞄になってからの使い方に多少難しさがありますし、コスト的にも少々高くつきます。一方、クローム処理の革は発色はきれいだし、艶もあります。ただし、人の体にはあまり良くありません。しかし、市場はタンニンなめしの革よりも、安価で加工しやすいクローム処理の革のほうを求めている。結果、良いタンニンなめしの革が市場に出なくなるわけです。極端ないい方をすると、「どうせ客にはわからんだろう」という大手メーカーの驕りのようなものが見え隠れしているように思えてなりません。
 同じようなことが鞄に使う金具、特に錠前にもいえます。数年前に、英国の錠前の会社が、ある部品の製造を中止しましたし、また、日本国内においても同じようなことがいくつかありました。大手の鞄メーカーが、より安価な錠前に切り替えていったがために、歴史ある、高い技術をもつ会社が価格競争に敗れてしまったんです。価格競争が、価値のある技術や残すべき歴史を壊していったんです。
 うちの作り方は、先ほどいいましたように、基本的にはあまり変わっていません。たまに、昔ながらの部品が調達できないとなると、本当に東奔西走して探すんです。見つからないときには、ほかの会社の部品を使ってみたりもしますが、結構使えないことが多いですね。皮肉なことに、うちのような小さな作り手ではなくて、大きな鞄メーカーほどコストを下げることを考えるようです。その結果、大手メーカーが良い技術を壊していっている。
 道具にも似たことがいえます。今私が使っている目打ちは、親父から受け継いだものです。新しいものもあるんですけど、なぜかしっくりこない。目打ちだけではなく、昔の道具は本当にきちんと作ってありますよ。しかも、おそらくしっかりした良い材料で。この目打ちの歯がこぼれたら換えがないと思うと,扱いも慎重になります。
 ある技術がひとたび失われると、その技術を復興させるのは不可能に近いくらい、難しいような気がします。ニーズがないからといえばそれまでのことですけど、ニーズのあるなしにかかわらず、価値ある技術、意味のある技術はきちんと残し,伝えていくべきではないでしょうか。


価値のある技術はこれからも伝えられていく


“なにわの商人”という言葉がありますが・・・。
 私らの仲間うちでは、「商売と屏風は広げすぎたらあかん。広げすぎたら倒れる」といいます。この仕事、大儲けの夢見だしたらダメでしょうね。なぜなら、本当に良いものがそんなにたくさん作れるわけがありません。
 鞄というものには、いろいろなものが詰め込んであります。書類や本、財布やペン、人によっては過去、現在、未来、夢までも詰め込んであることがあります。ですから、作る側としては良いものを作ろうと真剣に思います。特に私の場合はお客さんの顔を見てから作ることのほうが多いですから、鞄を通してマンツーマンの付き合いになるわけです。やはり、仕事そのものに面白さを見つけださんと、儲かることを優先的に考えていたら、しんどいでしょうね。
 親父は決してごまかさない人でしたから、商売上手とはいえませんでした。一時期かなり経営的に苦しい時期がありましたが、時代の流れでしょうか、手縫いの、昔ながらの鞄作りが評価されるようになり、今はどちらかというと追い風です。思うに、祖父や親父が自分自身をごまかさない仕事をしてきたからだと思いますね。感謝してます。

2年前からお弟子さんが入られたとか。
 結構いろいろな人が門を叩きます。2年前に入ってきたその子は、京都のミシン縫いの鞄屋さんにいた子で、どうしても手縫いの鞄を作りたいということで来ました。店舗移転に合わせて来てもらうようになったんですけど、教えるといっても「これはこうや」ぐらいしかいえませんね。私もそうでしたけど、まずは簡単なものから作ってもらいます。休み明けには「こんなもの作ってみました」といって、自分の作品を持って来ることもあります。好きなんでしょうね、作ることが。まあ、この仕事好きじゃないと長続きしないでしょう。
 教えるということは、こちら側にも良い刺激になりますよ。マンネリがなくなります。また、私と親父のときも、途中の作り方が違っても、ゴールは同じということがあります。結果が同じなら、途中はある程度、人それぞれに違っていてもいいじゃないですか。そういうことで活性化されるような気がします。

今後の夢は?
 来年の100周年のことを考えると頭が痛い(笑)。来年の秋頃に何かやりたいとは思っています。明治、大正、昭和、平成の馬場万の鞄を、これを機にじっくり見直してみたいですね。じっくり見返すことによって、先が見えてくるかもしれません。
 これからは、今まで以上に手づくりのものと大量生産のものの両極端に二分化していくと思います。そうなったときに、はたして技術だけで食べていけるかどうかは疑問です。
 鞄は日本では約100年の歴史で、高温多湿の日本の気候にはあまり合わない革鞄ですけど、使う人が日本人ですから、より日本人に合う鞄を作っていきたいですね。すでに色使いには、日本古来の色合いや風合いを取り入れています。やはり、日本の暮らしに合うのは日本の色ですね。
 また、これからは私自身のパワーがダウンしてくるでしょうから、仕事に合う自分のリズムを整えていきたいとも思います。たとえば、どこかの山奥に引っ込んで仕事して、できあがった鞄を車に積んで、都会のギャラリーで個展を開く。そうすれば日本各地を回れますし、各地のお客さんにも会える。自分自身、納得いく仕事を納得いくスタイルで続けられたらいいなと思いますね。



 この取材を始めて感じることがあります。その人が作るモノとその人の生き方が似ている、ということです。いつも大阪でお会いするときの秋山さんはノリのいい大阪人ですが、お話をいろいろとお聞きするうちに、まさしく鞄のような人だと痛感しました。盲導犬のためのチャリティーコンサートを開いたり、「なにわ商人“味と技”会」の会長であったり、時にお客さんの夢を叶えるサンタクロースであったり、ただの酔っぱらいのこともありますが、まさしく、酸いも甘いも、笑いも涙も詰め込んであるような人。加えて、鞄にはしっかりと芯が入れてあるように、生き方にも芯のある人だと改めて感じました。



[カルノ's エッセイ-Contents-]