ものづくり名手名言 歯科技工 第9号 平成12年9月1日発行

第9回 焼酎造りは農業の延長です
                  Interviewee 渡邊 眞一郎(酒造業)



 筆者は3歳まで、日南市油津駅の近くに住んでいました。その頃の数少ない記憶のなかに、レンガ造りの煙突と何かしら甘いような匂いが鮮明に残っています。その煙突と匂いこそが、京屋酒造の焼酎蔵の煙突と焼酎造りの匂いでした。

渡邊 眞一郎 わたなべ しんいちろう
1948年日南市生まれ、1971年慶應義塾大学卒業。1971年日本不動産銀行(日本債権信用銀行)入行。1977年京屋酒造有限会社入社。1993年同代表取締役社長就任、現在に至る。



渡邊さんの手→


京屋酒造有限会社

〒887-0001
宮崎県日南市油津2-3-2

http://www.kyo-ya.com/


天保5年(1834年)創業とのことですが、当然のこととして、あとを継がれたのですか?
 私が6代目か7代目にあたるそうで、聞いた話では、その昔、余った米で焼酎を造っていたそうです。その後、鰤網[ぶりあみ](漁業)と焼酎造りを家業としていました。小さい頃のイメージとしては鰤網が本業で、焼酎造りが副業であったような気がします。
 お正月になると、必ずわが家の宴会で酔っぱらう鰤網の漁師さんたちに対して、子供心に恐いイメージをもっていました。一方、焼酎造りの人たちは、住み込みの人もいらっしゃいましたし、しょっちゅう顔を見ていましたから、親しみがありましたね。学生時代は東京にいましたけど、いつしか、日南に戻って家業に携わるだろうなという程度で、必ず将来この仕事を継ぐという意識は、あまりありませんでした。

実際に継いでみてどうでしたか?
 両親のこともあって、1977年に日南に帰ってきました。確かに焼酎の造り方は知っていましたけど、地元には小学校までしかいませんでしたから、戸惑いはいろいろとありましたね。こちらの青年会議所に入ったんですけど、テンポが少々違う。また、地元で飲みに出ても、当時うちの焼酎はどちらかというと昔ながらの味で、シェアも落ち込んでいて、置いていない飲み屋さんも結構あったんです。
 そんな時に、“日本の焼酎の父”ともいえる菅間誠之助先生から声をかけていただき、これ幸いと、東京の醸造試験場の研究室に1年ちょっとご厄介になりました。1年半ほど東京にいたんですけど、その間、せっかく青年会議所のメンバーなんだから、青年会議所のアカデミーにも出向してこいということで、アカデミーに顔を出すようになりました。偶然にも九州の人が多く、そこでいろいろな地方の人に会うなかで、これだったら日南でもやっていけると思いました。そのあと青年会議所にはまってしまい(笑)、九州地区協議会会長までやるんですけど…。おおよそ昭和50年頃でしょうか、第一次焼酎ブームで、うちでも設備の拡大をどうするか、仕込みをステンレスのタンクに替えようかといった、いわば転換期が訪れました。設備を拡大すればその分投資しますから、当然のことながら大量に販売する必要性も出てきます。
 そんな時、大学の村田ゼミで聞いた“cutthroat competition(殺人的競争)”のことが頭から離れませんでした。ひとたび安売り競争、価格切り下げ競争を始めたら、どちらか一方が倒れるまでは競争が続くわけで、そのような競争はしたくないし、巻き込まれたくない。菅間先生も「酒造りにはきちんと伝統を残す必要がある、酒屋のオヤジはへそ曲がりのほうがいい」とおっしゃりますし、結局、昔ながらのかめ仕込みの造り方を遵守することになりました。

そのようななかで「甕雫[かめしずく]」は生まれたのですか?
 父のあとを受けて1993年に会社を継ぎましたけど、実はその頃が売り上げに関しては底でしたね。日南にも酒のディスカウント店が進出してきて、「ひょっとしたら,本当に蔵をたたまないといけないかもしれない」と思うくらいにまで落ち込みました。
 そんな折、「“味を世に問う焼酎”を造らないか」という話が持ち上がってきました。経営的には底でしたので、「これでダメなら焼酎造りをやめよう」という気持ちで取り組み始めました。 まずは芋作りからです。価格競争をしない焼酎を造るわけですから、原料作りから手掛けないといけないという思いがありました。
 串間市(日南市の南に位置し芋作りで有名)に、有機農法で芋を作っている人がいるというので訪ねて行き、「どうやって作るのですか?」との問いに「簡単ですよ」との答え。ところが実際やってみると大変でしたね。当たり前のことですけど、雑草が生えるんです。しかも、通常なら3トン採れるところが、1トン半くらいしか採れない。そこで、有機農法ではなく、スタンダードな作り方の農家にも聞きに行きました。すると驚いたことに、「薬(除草剤)を撒いた日には晩酌をするな」というようなことが、まことしやかに囁かれているんです。それを聞いた時に、うちではこの方法はダメだ、うちの従業員の体を壊すようなことはできない、と思いました。
 また、芋の品種については、焼酎造りの常識では「黄金千貫」が一番適しているとされています。しかし、うちでは「紅寿甘藷」を選びました。この「紅寿甘藷」は食用の芋ですから、食べても美味しい芋です。専門家からは「紅寿甘藷を使うとは非常識だ」と言われましたが、それではなぜ「黄金千貫」がベストなのかと聞いても、答えはあまり明確ではありません。考えるにおそらく生産性が優れているからでしょう。単位面積当たりの収穫量が多く、病害虫にも強いということでしょう。
 芋の処理の仕方に関しても、周りの声にはあまり耳を傾けませんでした。皮の剥き方やヘタの処理など、焼酎造りの常識とされていることよりも、自分にとって納得できる方法を選びました。もちろん基本的なことは踏まえてのことですけどね。

なぜそこまでこだわったのですか?
 先程も言いましたように、“cutthroat competition”はしない、巻き込まれたくないと決めていましたので、それでは何をもって差別化するかということが必要になるわけです。ただボトルやラベルのデザインを変えただけではだめでしょう。はっきりいってお金はもらえませんよ。
 麦焼酎と芋焼酎は確かに違う。さらに、同じ芋焼酎のなかでも、いかに味に違いを出すかが問題です。この焼酎は原料がこれでこういう造り方をしているから高いんです、その焼酎は原料がそれでそういう造り方をしているから安いんです、というように、はっきりした違いがないと、結局は似たようなものを大量生産して大量販売、大量消費しなければいけなくなります。
 もうひとつ頭に引っかかっていたことがあります。以前、大分の「いいちこ」がヒットする前に、麦焼酎をうちでも造ったことがありました。イオン交換法を使った造り方です。自分なりに良いものができたと思っていましたが、今思えば中途半端な形でやめてしまっていたんです。あとになって、「なぜあの時にしっかり完成させておかなかったのだろう」という反省が残りました。ですからこの「甕雫」に関しては、じっくり腰を据えて取り組もうという気持ちがありました。

一升瓶ではなくて“かめ”に入っているのもこだわりですか?
 この容器に関しては、専門家の意見が役に立ちましたし、正解でしたね。このかめだと、どちらかというと、一人でちびちびやるというよりは、大勢でパーッとやる宴会のほうが似合うでしょう。ですから売れている本数はさほどではなくても、一升瓶よりも数多くの方に知ってもらえているようですね。平成7年の発売開始なんですけど、この「甕雫」に関してはリピーターの反応が驚くほど早かったですね。
 しかしまだ、このかめは不十分なんです。封に関しては未完成なんです。はじめは杉板とサランラップと幅の広い輪ゴムで封をしていました。今はさらに、アルミホイルを挟み込んでいます。足掛け5年になりますが、何せ口が広いものですから、いまだに試行錯誤が続いています。
 また、今年の3月からは、かめのリターナルサービスを始めました。使用済みのかめを引き取るサービスです。これからのものづくりは、原材料の生産方法から使用済みの容器に至るまで、環境に優しいほうがいいでしょう。
 このかめを一升瓶に変えれば、封の問題もすべて解決するわけですけど、それじゃあ面白くない。ものづくりというものには、ある程度の頑固さが必要だと思います。大量生産する企業であれば、マーケットリサーチしたうえで、消費者の好みに合わせた焼酎を造ってやっていけると思うんですけど、うちみたいなところでは、いかに個性を発揮するか、オリジナリティをもつかが勝負です。頑固さと信念をもっていなければ、このような商品は生まれてこないのではないでしょうか。自分の好きなこと、納得のいくことをとことんやってみて、初めて自分のやりたいことが見えてくるような気がします。

今後はどのような焼酎造りを考えていらっしゃるのですか?
 実は、来年か再来年で、国の澱粉に対する補助がなくなります。その時に、どれくらいの日本の農家が、焼酎用の芋を作ってくれるのかが心配です。中国産の冷凍芋もありますけど、どんなところでどうやって作っているのかがわかりませんからね。はたして日本産のフレッシュな芋がいつまで使えるかどうか・・・。
 「紅寿甘藷」に関しては、うちの芋畑で作っています。焼酎造りは、あくまでも農業の延長線上にあるんです。いかにいい焼酎を作るかは、やはりいかにいい芋を作るかに左右されます。
 夢なんですけど、一面の芋畑のなかに瓦葺きの蔵造りの建物があって、そこで焼酎を造るんです。フランスのワイン畑とシャトーのような光景を想い浮かべています。自分で飲んでみて本当にうまいと思える焼酎を、今後も造っていきたいですね。
 また、菅間先生は「焼酎も国の酒である」とおっしゃっています。国の酒はその国の文化であり、食文化とも深くかかわっています。そういう意味でも、もっと焼酎にポピュラーになってほしいですね。
 別に焼酎を飲まなくてもワインがあるし、ウィスキーやジンもあるし、と思う方もいらっしゃるでしょう。確かにそうです。しかし、日本の食事に合う酒は、やはり焼酎と日本酒じゃないでしょうか。特に焼酎の場合はお湯で割って、飲む濃度を変えることができますし、日本酒よりも料理に対して控えめだと思います。しかも、手前味噌かもしれませんが、焼酎のほうが、和食、焼肉、中華などと、相性の良い料理の範囲も広いように思えますし、濃度を変えて食前酒、食中酒、食後酒としても楽しめます。日本各地の郷土料理とそれに合う焼酎の組み合わせも、しっかり考えてみたいですね。そういう意味でも、いろいろな場面に合ったいろいろな焼酎を、造っていきたいと思っています。



 3歳の頃に見たあのレンガ煙突の下に、このようなドラマがあったとは夢にも思いませんでした。「焼酎造りは農業の延長」という言葉は意外でした。そうして、このような姿勢と信念をもつ造り手こそが、本当の“ものづくり”であり、生き残っていく“ものづくり”であると確信しました。今度「甕雫」を飲む時には、この話を思い出しながらじっくり味わってみようと思います。



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