ものづくり名手名言 歯科技工 第6号 平成12年6月1日発行

第6回 美しいものを求める本能
                  Interviewee 士野 精二さん



筆者は父の転勤のため、九州各地を転々としてきました。小学生(熊本市内)のときの担任の先生のご主人が、画家 士野精二先生です。

士野 精二 しの せいじ
1940年熊本県生まれ。幼いときに両親を病気で亡くす。1960年熊本県立宇土高等学校卒業。1964年熊本大学教育学部美術科卒業。小学校,中学校,養護学校を経て,県立高校で美術科を教える傍ら、絵を描き続ける。1965年熊日画廊で初個展、以後毎年個展を開催。1993年熊本 県立大津高等学校を退職。同年秋から1999年夏までスペイン・セビリアに在住して美術研修。



士野さんの手→


↓士野さんのアトリエ

画家になろうと思われたのは?
 一言では言えませんね。どこかに遺伝子があったんでしょう。家族や親類に画家がいるわけではないのですが・・・。
 やはり、幼いときに両親を失ったことが一番影響しているのでしょう。両親がいないということは、子供にとってはそれはもう極度の緊張状態の連続で、自分を守るために、小さな頃から身近にいる大人を含めて周りのものを努めて冷静に見ていましたね。
 そんななかで子供心に救われたのが、当時住んでいた熊本の田舎の美しい自然です。青空であったり、夕焼けであったり、木々の合間からの木漏れ日であったりでした、一方、戦中・戦後の人びとの、ときには人間の本性を丸出しにしたような言動に衝撃を感じることが多くなり、気苦労する日々が永く続きました。そんな体験が、心の支えになったあまりにも清澄な大自然と、私を苦しめた人間の本性とを表現したいという気持ちにさせた原点となりました。
 でもその表現手段は、初めは絵筆ではなくてペンでした。絵ではなくて文章でそういうことを表現していて、ペンを絵筆に持ち替えたのは、18歳のときでした。

小さい頃から絵を描いていらっしゃったのですか?
 親を亡くしたこともあって、一人遊びが多かったように思います。幼い頃の環境は、絵とか美術などとはほど遠いものでしたね。ただひとつ、村に一枚だけ絵があって、それは油絵だったと思うんですけれど、近所の家の居間に飾ってあって、その絵を窓から覗いてみては、家に帰って水彩絵の具で感じを再現してみようと描いていました。小学校4年生のときには、ほぼその油絵のような描き方を身につけていました。
 中学生のときは、郡内の写生大会に出品しても一度も入選しませんでした。先生に「なぜ僕の絵が入選しないのか聞いてほしい」といったところ、審査の先生からの返事は「大人の手が入っている」でした。それを聞いて自信を深めました。

大学で美術科を選ばれたのは?
 当時昼間は住み込みで働きながら、夜間の高校に通っていました。途中で親戚とのいろいろなからみがあって、医学部進学へ方向転換を余儀なく迫られ、全日制の高校へ転校しました。
 その高校の編入試験を受けにいくときに、駅で初めて週刊誌を買いました。運命なんでしょうね。何気なく開けたそのページは、ゴッホの絵のカラーグラビア。何とも言えない強い衝撃を受けました。何と切ない絵を描く人なんだろう。この絵こそまさしく僕が描こうとしている絵そのものではないかと・・・。そのとき素直に、何とも僕の絵に似ている絵ではないかとさえ思いました。このとき、はっきりと「絵描きになろう」「絵描きになれる」と確信しました。18歳でした。
 それからはもう、医学部進学はどこへやら、ひたすら高校の図書館で、いろいろな画家の画集を毎日のように見ていました。
 大学に進んでも、中学生のときの経験などもあって、教授の教えのなかで自分の理念に合わないことには従いませんでした。時代も悪かったんです。当時、アメリカから抽象画が入ってきて、それまでのものは唾棄すべきであるという風潮が絵画の世界にありました。私にとっては、高校時代に見た写実主義の画集が先生でしたから、対立するわけです。私が、あまりにも言うことを聞かないものですから、教授が討論会を開いてみんなの意見を聞いてみようじゃないかと言い出したことがありました。その討論会で私は「先生のおっしゃることはよくわかりますが、それは枝の先の新芽のことであって、今、私に必要なものは太い幹を支える、しっかりとした根をはることです」と言ったことを覚えています。

卒業後は順風満帆だったんですか?
 まさか(笑)。週刊誌でゴッホの絵を見て絵描きになろうと確信したとき、震えたんです。武者震いではなくて、貧乏が続くという意味での恐怖からくる震えです。美術の教師の他にも体育クラブの監督もしながら絵を描いていたわけですけれど、時間もお金も足りませんでした。
 しかし、熱意は人一倍ありました。初めはいくつかの展覧会に出品したこともありましたが、展覧会の裏側を垣間見るにつけて嫌気がさし、30歳のときに腹を決めました。一切会には属さない、一匹狼で行くと。25歳のときから毎年個展を開いています。
 教師としての仕事の合間に絵を描くのですから、日頃ゆっくりと自分の絵を見ることもできません。もちろん、絵を並べるスペースもありません。個展会場に並べて約一週間ほど自分の絵を見ていますと、描いているときには見えなかったいろいろなアラが見えてきます。また、来場された人から直接評価を聞くこともできます。好評、不評、いやみなど、さまざまです。
 初期の頃、ある画家から「未完成の絵を出品するとは何事か」と叱られましたが、「これが今の私の精一杯です。つじつま合わせはしません」と答えたことがありました。私の場合無所属ですから、会の面子やその会の重鎮の先生に気を使う必要がないわけです。ただ自分の目標にこだわるだけでよかったんです。

その個展も35年間続いていますが。
 私なりに、おおかた5年ごとに目標を決めて絵を描いてきました。ですから、年によっては前の年とは全く違う画法で描いた絵を出品することもあります。
 たとえば、ある登山家がある高い山に登るとしましょう。その登山のためには、体力、技術、知識、装備などなど、いろいろなことが必要になるように、5年ごとの目標設定で必要なことを少しずつ身につけてきたつもりです。私が登山家なら、やはり高い山を目指します。今やっと麓にたどり着いたといったところでしょうか。しかしそろそろ登り始めないと、年が年ですから(笑)。

高校教諭時代には、どのように教えられていたのですか?
 まずもって、今の高校教育の限られた時間だけでは無理があります。時間的にはホンのさわり程度しか教えることはできません。
 歴史的に見ると、ヨーロッパにおけるルーベンスやレンブラントにしても、全く今とは異なります。工房というか、完全な会社のような組織のなかで、彼らは10歳代の子供をスカウトしてきては、自分の工房で働かせるのです。そうして少しずつ教えていきます。ですから、その精神的な結びつきは今とは比にならないほど強く、いわば徒弟制度のなかで美術の深さや技術を伝承し、素質を伸ばしていったのです。
 しかし彼らは、スポンサー(王様など)の意向どおりに描くことが多かった。ゴヤでさえ、晩年になってやっと本音の絵をたくさん描いています。今の世のなかはすべての意味で自由です。誰のために、何の目的で、どこで、何を使って絵を描こうと自由です。その代わり、ヨーロッパの歴史に見られるような技術の伝承は、少なくなってしまったと言っても過言ではないでしょう。

昨年まで6年間、スペインのセビリアに行かれたのは?
 “自分の原風景の空を求めて”でしょうか。幼い頃の思い出は辛いことが多かったのですが、その対蹠点として、田舎の自然の美しさが脳裏に焼き付いています。人には美しいものを求める本能があるんじゃないでしょうか。
 確かにスペインの空は、求めていた空に似ていました。ヨーロッパ本土から風が吹いてくると、大気汚染の影響でしょうか、空はもやっとなります。アフリカ本土から乾いたきれいな風が吹いてくると、それはもう美しい空になります。人は受容したものしか表出できないような気がします。
 最近、熊本の空も以前に比べると汚れてきたように思います。このまま日本の空が汚れていくと、今後、北斎や広重のようなすっきりとした絵を描く画家は現れないのではないかと危惧します。絵を描くということは、一見無関係のようで実は、その時代背景やその社会状勢を如実に反映しているのです。

先生にとって絵を描くということはお仕事ですか?それとも…?
 スペインにいたときには、各地の多くの美術館を回りました。あちらの美術館に飾ってある絵には100年以上、300年以上たつ絵もたくさんあります。そのようなすばらしい絵と対峙していると、その絵と語り合えるんです。絵の前に立つと、絵が語りかけてきてくれます。その語りに耳を傾け、こちらからも話しかけます。それは、あたかも教会で懺悔しているかのような会話です。そうして、その絵から離れるときには、生きる勇気と自分の存在の意義を確信させてくれます。
 ピカソにしても、ゴヤにしても絵のなかに魂が宿っています。その魂との会話は非常に楽しく心なごむものでした。私の場合は自分の存在の肯定、自分自身の魂の救済、イコール絵を描くことです。ゴヤは最晩年に、それはそれは鏡のように澄みわたった絵を描いています。おそらく命をかけて絵を描いてきて、とうとうそのような境地にたどり着いたのでしょうね。そのような絵を前にすると、見ている者は救われ、喜びを感じます。素晴らしい仏像に思わず手を合わせる感覚でしょうか。できることなら私もそのような絵を、たった1枚でいいから描けたら本望ですね。

今、振り返ってみてどうですか?
 一言で言えば、運がよかったのでしょう。ハンディは数多くありました。しかし、私が生まれるのが10年早くても、10年遅くても、今の私にはなっていないでしょう。いろいろなことが、結果的にすべてプラスに作用してくれたと思います。
 先ほども言いましたように、今やっと麓にたどり着きました。これからが本格的な登山です。今まで目標に向かって積み重ねてきた成果をまとめる段階にはいってきました。集大成するような絵を、1枚でも2枚でも世に残したいと思います。


「スペインのヒマワリ・咲き始めの頃」(部分)士野精二(1999年)



 筆者にとって、画家の方にじっくりとお話を聞いたのは、今回初めてのことでした。取材しながら、一筆一筆、また絵の具の一色一色に、これほどまでに深い思い、考え、感動、苦しみ、喜び等々が込められていることを知り、はっきり言って驚きました。「画家の方がたは、皆さんこのようにして描いていらっしゃるのですか?」と質問したところ、「人それぞれでしょう。登山家だって世界の高峰を目指す人もいれば、トレッキングを楽しむ人もいるでしょう。人それぞれですよ。」とのお答えでした。“人それぞれ”とは良く耳にする言葉ではありますが、今回のこの言葉は筆者の心に深く響きました。



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