ものづくり名手名言 歯科技工 第2号 平成12年2月1日発行

第2回 正直なものづくり  Interviewee 田島修次さん



 今月は鹿児島県金峰町に、麓窯(ふもとがま)・田島修次さんを訪ねました。
 自分事で恐縮ですが、筆者は数年来お茶を習っています。あるときお稽古にいくと、茶室に男性がひとり静かに座っています。お話をしてみると、その方が萩焼の流れをくむ陶芸家、田島修次さんでした。

田島 修次 たじま しゅうじ
 1958年鹿児島県日置郡金峰町生まれ金峰町育ち。二十歳の頃吉賀大眉先生の作品に出会う。1980年鹿児島大学教育学部美術科卒業後、萩市大眉窯に弟子入り。5年間の修行を経て1985年金峰町阿多に麓窯を築き独立。現在鹿児島県川辺町(かわなべちょう)の依頼により百年前に途絶えた川辺焼きを復興中。



20年間土をこね続けてきた田島さんの手→

麓窯(ふもとがま)

〒899-3511
鹿児島県日置郡金峰町宮崎4324-2


この道に入られたきっかけは?
 学生の頃(鹿児島大学在学中)に日展の巡回展で“壺”を見たときの衝撃がきっかけでした。それまでは奇麗な夕焼けとか、美しい山の風景に感動していました。僕を感動させるものは、自然の風景そのものだったんです。
 ところがその壺を見たときは違いました。人の手によって作られた作品を見て、初めて自然以上に感動しました。その壺は「自然以上に自然」でした、自然を見たときの感動が、人の手によってモディファイされて器となるんですね。ですからあくまでも自然そのものから受ける感動のほうが、モディファイされたものから受けるものより上だったんですよ、僕の中では。
 しかしこの壺を見たときにそれが逆転しました。そしてこのとき、人の手によって自然以上に感動を与えるものを作ることができるこの仕事を自分の天職だと思い、自分の手を使うこの仕事で、一生いこうと決めました。

その決め方は、ある意味で“賭け”のような気もしますが・・。
 人生のなかにはいろいろな出会いやチャンスが多々あると思います。そのなかで自分に合ったものを見つけられた僕は幸せですね。ですからその後の迷いはなく、教育学部でしたから、同級生のほとんどが教員採用試験を受けるときも受けませんでした。
 卒業すると同時に吉賀大眉先生に弟子入りするわけですが、またこれも素晴らしい出会いなんです。大学の恩師の師匠が偶然にも吉賀先生でした。ですから卒業前には話がついていました。

その“壺”は今でも脳裏に焼き付いているのですか?
 はっきり覚えています。吉賀先生が亡くなられた今では、萩市の吉賀大眉記念館にあります。古典的な萩焼というよりも、“吉賀風の萩焼”ですね。
 藁灰釉をかけて登り窯で5回くらい焼きます。一年間かけて一つの作品を作るんです。吉賀先生には藁灰釉の使い方の奥義を教わりました。
 普通1回しか焼かないのに5回も焼くわけです。そうすると萩焼特有の白がやさしいピンクや青色に窯変してきます。古典的な萩焼を踏まえての独自の技法でしょうか。言うなれば常識破りの挑戦ですね。吉賀先生は陶芸家としては二代目でしたが、東京芸術大学で彫塑を勉強されており、「常に新しいものを作る、研究する」という姿勢を持っていらっしゃる方でした。

独立後は順風満帆だったんですか?
 不思議とこれまで、アルバイトをすることもなくきてますね。田舎って住みやすいから。生きることって、考えようによっては簡単だと思うんです。貯金の額よりも軒下に積んだ薪の多さのほうが大事、こんな考え方が好きですね。けど最近ですよ。「あれっ俺って器用なんだ」と思えてきたのは、本当に最近なんです。修行中は師匠が評価してくれますけど、独立後は自分一人で考え、自分で作って、自分で評価する。そのなかに葛藤があるわけです。独立当初は、はっきりどこがどうと言えないけど、思ったとおりのものができない、そういう不器用さがありましたね。
 今ではねらいどおりのものができます。窯出しのときが楽しみですね。もちろん失敗はあります。しかし、打率でいうと8割は越えますね。やはりねらったとおりの色がでるとか、思う色を出すための駆け引き、いつ火を落とすとか、もう少し薪を足すとか、これは醍醐味です。この醍醐味があるんでこの仕事はやめられないですね。
 実は最近、やっと名刺を作ったんです。今までは“陶芸家”を名乗ることに何かしらわだかまりがあったんでしょうね。20年経ってそのわだかまりが消えたんでしょうか。

川辺焼きの復興についてお聞かせください。
 川辺町の役場の人が「できますか?」と、突然来られました。川辺焼きのルーツは、約百年前に熊本の八代日奈久の高田焼きから分家して窯を興したのが始まりみたいですね。その後、後継者がいなくて途絶え、今では町のお寺に当時の作品が数点残っているだけです。依頼されたとき、残されている作品を見ることなく二つ返事で受けました、20年間の経験がそうさせたのでしょうか。“復興”というより新たに川辺焼きを興すつもりで引き受けています。
 まずは土探しです。川辺町のいろいろなところから土をサンプルしてきて分析しました。サンプリングや分析は学生時代に経験していますから苦になりませんでした。学生時代の実験が役に立ちましたね。
 次に町の募集・選考を経て、3人の陶芸家の卵が決まりました。皆さん素人の方ばかりです。その3人に初めに教えたのが“気”というか“精神”です。町の依頼を引き受けるときに、僕は「技術だけではなく精神的なものも教えますから」と言って、了解を得ました。最初の頃、この3人に「心を込めて作りなさい」と説くと、「心を込めるってどうやるんですか?」と聞いてきました。
 半年くらいして、3人のうちのひとりの人が「友人にカップを作ってほしいと頼まれたのですが、作ってよいでしょうか?」と言ってきたので、「もちろんいいですよ。すばらしいことです」と答えました。そして見ていると、その人は一生懸命に作るっているんですね、注文してくれた人のために。それで「これでわかったでしょう、心を込めて作るということが」と。
 やはり作るときに、その器のバックボーンが見えていないとダメです。誰のために作るのかとか、この器にはどのような料理が似合うとか。もの作りに精神は不可欠です。
 つまり作品は僕自身なんですよ、カップひとつであっても田島修次の化身なんです。ですから正直にものを作りたい。作り手と作品は同じものであって矛盾があってはいけない。生き方と作品は同時進行なんです。大事なことですよ、これは。いずれ3人の人たちはプロになるわけですが、僕の精神まで受け継いでほしいですね。


工房の展示棚


ずっと残るものを作っていきたいというのは?
  たとえば人から貰い物をしたとします。それがあなたにとって不必要なものだったら困るでしょう。昨今の日本は、大量生産・大量消費のうえに成り立ってきたような気がします。悪い意味での“適当な”ものを作って、消費者はそれを“適当な”気持ちで買って、結局まだ使えるのに“適当に”捨ててしまう。残るのはゴミの山です。
 僕は嫌ですね、粗製濫造し使い捨てのように消費するのは。やはり代々残るもの、残っていくものを作り、それらが適正な価格で販売される世のなかになったらいいなと思います。粘土だってこの地球に無尽蔵ではないし、薪として使う赤松もそうです。だからこそ自分の生き方、ライフスタイルを含めての、正直なものづくりをしたいと思うわけです。初期の頃からこのような思いとしてはありましたが、実際には作れない、そこに葛藤があるわけです。
 ものづくりは決してコンピューターにはできません。やはり人間はすごいですよ。人を越えられるのは神しかいないんです。しかし僕は人だから気が楽ですよ。人だから失敗はするし、よからぬこともたまには考える、けれどもそれが自然体じゃないでしょうか。
 生活のために作るんじゃなくて、作りたいものを作る。しかも楽しみながら一歩一歩石段を登るように前向きに進んでいく。そこにあるんじゃないですか、生き甲斐とかやり甲斐が。
 『無我夢中』という言葉が好きです。実は中学2年の息子と少林寺拳法していまして、気がついたら親子演武の部で優勝して県の代表になっていました。新潟での全国大会に先日行ったんですが、やはり本物を見るというのは必要ですね。段は下ですが非常にうまい小学生がいまして、その子を見たとき息子の目の色が変わりましたね。
 僕も今までいろいろな本物や多くの素晴らしい人に出会ってきました。そして本物の器やその人たちから多くの“気”を受けてきました。決して一人で今の自分になったんじゃない。多くの人の“気”を吸収して今の自分がいるんです。ときには“気”の充電が必要かもしれません。

 ここまでお話を聞いてちょうどお昼でした。
 「出来ましたよ」との奥様の声とともに運ばれてきたお昼ご飯は、田島さんの器(楕円形の皿)に自家製のかますの一夜干し。
 器と料理がこれほどまでに同化したものは見たことがありませんでした。



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